広島赤十字病院でやけどの手当てを受ける少年。のちに画像鑑定で、この少年が原田成男と特定された(撮影:宮武甫)
広島赤十字病院でやけどの手当てを受ける少年。のちに画像鑑定で、この少年が原田成男と特定された(撮影:宮武甫)
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 1945年8月6日と9日、広島と長崎に投下された原爆。戦後7年目に「原爆被害の初公開」として報道したのは、朝日新聞社発行の「アサヒグラフ」だった。朝日新聞カメラマンの写真が担ったこととは──。AERA 2025年8月11日-8月18日合併号より。

【写真】広島平和記念資料館で「この少年は、俺やで」 被爆を語らなかった父に息子が今夏思うこと #戦争の記憶

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 朝日新聞カメラマンによる原爆被害の写真はさまざまな役目を果たしてきた。

 広島の路上で、「撮らんといて」と言われながらも大阪写真部の宮武甫が撮影した親子の写真。包帯を巻いていた当時6歳の少女は、79年に新聞で写真の存在を知ったという。朝日新聞の記事によれば、戸惑いもあったが、「(写真が)孫たちに被爆体験を語るきっかけになった」と語り、感謝の言葉を述べている。

 宮武は現地で、老若男女の区別もつかない人間にもカメラを向けた。原爆写真の調査を続ける元中国新聞記者の西本雅実(69)はこう話す。

「宮武さんは、手練れのカメラマンだったからこそ派遣され、葛藤しつつもプロの職業意識に徹して未曾有の現場を撮ったとみています」

 87年には、東京本社出版局カメラマンの松本栄一が広島の縮景園で撮影した写真の墓標を手掛かりに、現地で発掘調査が行われ、計64人分の遺骨が見つかった。

 2年前の2023年にも動きがあった。当時のアサヒグラフに掲載された写真で、一人の身元が特定されたのだ。宮武が広島赤十字病院で撮影した「火傷の手当てを受ける少年」の原田成男だ。

臨時救護病院となった新興善国民学校で手当てを受ける子ども(長崎)。薬が満足になく、ほとんどが赤チンを塗られていたという(撮影:富重安雄)
臨時救護病院となった新興善国民学校で手当てを受ける子ども(長崎)。薬が満足になく、ほとんどが赤チンを塗られていたという(撮影:富重安雄)

この少年は、俺やで

 今から30年以上前のこと。成男の息子・原田昌吾(52)が10代だったころに、家族旅行で大阪から広島平和記念資料館を訪れた。やけどを負った少年が医師から顔の治療を受けている写真の前で、父がつぶやいた。

「この少年は、俺やで」

 日常会話のように切り出され、昌吾は「そうなん」と言うことしかできなかった。父にとってこの旅行は、被爆したときに看病してくれた看護師の松本チエ子に会うのが目的だった。父が広島を訪れたのは、その時が最後だった。父は被爆のことを多く語ることなく、写真が自分だと名乗り出ることもなく、1999年に70歳で亡くなった。

 その後、昌吾は、父を治療した医師・永田幸一の娘が、「あの少年はその後どうなったのか、それが気がかりです」とコメントをしている記事を偶然読んだ。

「親父の名前を残したい」

 そう思い、広島平和記念資料館に連絡を取った。人物特定のために資料を探す中で、父は頭部、顔面、首、両手両足と全身にやけどを負い、口を開くことも、飲むことも食べることもできず、ときどき意識不明になったことを知る。

「痛かったやろうな」

 そう語る被爆2世の昌吾も、30代で悪性リンパ腫となり、骨髄移植を受けている。

 この夏、昌吾は家族で広島平和記念資料館を訪れた。娘たちを含め、今の若い世代は、戦争の実感が薄い気がする。

「でも、写真は残る。写真が伝えてくれるかもしれない」

 そう祈りを込める。(文中敬称略)

(AERA編集部・大川恵実、井上有紀子)

長崎要塞司令部の壁には当直の監視兵の姿と帯剣、梯子の影が焼き付いていた(撮影:松本栄一)
長崎要塞司令部の壁には当直の監視兵の姿と帯剣、梯子の影が焼き付いていた(撮影:松本栄一)

AERA 2025年8月11日-8月18日合併号より抜粋

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