ばいしょう・ちえこ/俳優、歌手。「男はつらいよ」など数々の映画に出演。山田洋次監督の91本目となる映画で、木村拓哉との共演が話題の「TOKYOタクシー」が11月21日に公開(撮影:写真映像部・佐藤創紀)
ばいしょう・ちえこ/俳優、歌手。「男はつらいよ」など数々の映画に出演。山田洋次監督の91本目となる映画で、木村拓哉との共演が話題の「TOKYOタクシー」が11月21日に公開(撮影:写真映像部・佐藤創紀)
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「戦争や平和について考えるようになったのは、芸能界に入ってからです」。そう語るのは倍賞千恵子さん。きっかけは「いい作品」との出合いだった。倍賞さんが伝えたいこととは──。AERA 2025年8月11日-8月18日合併号より。

【写真】「『核』は持ってはいけない」と話す倍賞千恵子さん

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 私は1941年6月、東京・西巣鴨の生まれです。同年の12月には太平洋戦争が始まり、戦況が悪化したので東京を離れ、茨城県の母の故郷の村に疎開したんだと思います。

 疎開先では子どもらしい、伸び伸びとした生活でした。食べ物は不足していましたが、麦ご飯にさつま芋を入れて食べたり、おかずが足りないときは「千恵子、キノコ採っておいで」と言われて、弟を背負い、犬も連れて山にキノコを採りに行き、それが晩御飯のおかずになったり。そんなことを覚えています。

 召集で満州に送られていた父のことを「戦争に行っているんだな」と理解はしていましたが、それ以外は「戦争」というものを感じることのない、楽しい日々でした。4歳で終戦を迎えましたが、玉音放送のこともまったく記憶にないんです。

戦争では何も残せず

 疎開先から東京に戻った後、母から東京の空襲の様子を聞かされたことはあります。米軍機から焼夷弾が落ちると油が家屋の壁に張りつき、そこから炎が出たこと。B29が飛んでくると操縦席にいる人の姿が見えたこと。でも、戦禍のイメージというと子どもの頃はそれくらいしかなかった。戦争や平和について考えるようになったのは、芸能界に入ってからです。いい作品との出合いが、そのきっかけだったように思います。

 たとえば原爆白内障の女性を演じたテレビドラマ「夏の光に…」(80年)や、広島市の平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんの母親役を演じた映画「千羽づる」(89年)。中でも大きな出合いが、谷川俊太郎さん作詞、武満徹さん作曲の「死んだ男の残したものは」です。

 ベトナム戦争最中の65年に作られ、「戦争では何も残せず、みんな死んだ」という歌。これに出合った90年頃から、戦争と平和についてより深く、考えるようになりました。ずっと大切に歌い続けなければと思っている曲です。

 2011年の福島原発事故も、私にとって大きな出来事でした。それまで、いつも戦争や平和の大切さを考えながら仕事をしつつ、大上段に構えて発言することはありませんでした。13歳で歌手デビュー、20歳で映画デビューしてずっと、目の前に来る仕事を自分の中で受け止め、演じたり歌ったりに明け暮れる日々。自分の思想を前に出して何かをするところまでいかなかったんでしょうね、きっと。

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