なんていうんだろうな、本当に冷たい人間みたいなんですが、私のところに蝶が寄ってきても「あ、ryuchellだ!」と考えるよりも、逆に淡々と過ごすしかなかった。そういうものに、すがりたくないというと言葉はきついけど、そういう気持ちがある。周りの方々から行っていただける「絶対、ryuchell見てくれているよ」というのも温かい言葉として受け止めているんだけど、なんか、所詮言葉に過ぎないと思っちゃうというか、これまでのひいおばあちゃんとかが亡くなったときとは違う考えになりました。

 それまでは亡くなった人を思い出し「いまどうしているかな」とか考えたり、「おばあちゃんが見に来てくれて、きっとこうなったんだ」とか思っていた。息子がいて、生きていかなければならないじゃないですけど、ここにいる息子を大きくしていかなければいけないときに、そういうものを信じてこなかった2年間だった。これからも、私はそういうスタンス。冷たい人間に見えるかもしれないけれども、私はそんな感じ。

 一回、この気持ちを自分のインスタとかでめっちゃ書き起こしたかった。でも、めっちゃ冷たい人間に見えるなと思って……この気持ちを一体どこで言えるんだろう、って。

息子には「ダダ、見てくれているよ」と

 もちろん、日々息子には「ダダ、見てくれているよ」って言っています。「ダダ、いまここにいると思うよ」とかも実際に言うし、思っていないわけではない。でも、息子を落ち着かせるとか、気分を紛らわすために言っているのでもない。

 亡くなった人が「見てくれているよ」って、でも、本当にめちゃくちゃ科学的には、そんな俯瞰して空から見てくれるわけはないのかなって。だから、それって、こちらの希望なわけじゃないですか。見ていてくれてほしいなっていう、希望でいいんだけど、こっちが思っているだけの話であって、なんかそういう風には考えますね。

 わからないですけど、「絶対にryuchellが見てくれているんだ」とか思い過ぎると、毎日を過ごすことにフォーカスしたいのに、きっと悲しくなるだろうし、亡くなってから今日ここまでの突っ走るぞというペースを乱してしまったような気もする。

次のページ 息子とのいまが大事