文化勲章受章の記念セレモニーでグラウンドに登場した長嶋茂雄さん(2022年3月)

足が不自由なのに気を使ってくれた

──テリーさんがテレビ番組で活躍するようになって、長嶋さんと実際に会う機会もあったと思います。

 2000年、ミスターが巨人軍の監督として最後に優勝し、日本一に輝きました。実はその年の2月に宮崎のキャンプへ行って、「監督、優勝したら胴上げしたユニフォームをください」と冗談で言ったら、「あ、いいよ」と承諾してくれたんです。そして8月に東京ドームへ行ったとき、「ミスター、覚えていますか? 2月のキャンプで優勝したらユニフォームをくれると言ってくれたんですよ?」と聞いたら、ミスターは「覚えてる、覚えてる」と言って、実際に優勝したら、次の日にミスターから本当にユニフォームが届いたんです。ユニフォームのズボンのベルトまでついていて、さらに帽子もあった。土もついていたので、その4点セットはお宝になっています。

──プライベートでの思い出はありますか?

 僕が10数年前に家を建てたとき、ミスターに「表札を書いていただけませんか?」と頼んだんです。ミスターはそのとき右手が不自由だったのですが、「わかった」と言って、左手で色紙に平仮名で「いとう」と書いてくれたんですよ。僕はその色紙の字を表札屋さんに頼んで、立体化しました。ミスターが書いてくれた字は今でもうちの表札になっています。

──長嶋さんは2004年3月、脳梗塞で倒れましたが、そこから復活を果たしました。

 ミスターとホテルの部屋でお話する機会があって、終わった後、エレベーターのところまでお見送りしたことがありました。ミスターは足が不自由なので、僕がその歩調に合わせてゆっくり歩いていたら、ミスターは「ああ、テリーさん、ありがとうね。すいません」って、僕に気を使ってくれたんです。こんな状況下でも、僕のことというか、人のことを気にしてくれるんだなと思って、涙が出てきた思い出があります。

──長嶋さんは立教大学から巨人に入団して、その時代の日本人に夢を与えました。プロ野球を日本に根付かせたのも長嶋さんだったと思います。

 あの頃は日本中がモノクロでした。テレビはカラーでしたが、街全体がモノクロだった。たとえば、後楽園球場へ行っても、夏になると、男の人はみんな白の開襟シャツで、学生は学生服を着ていた。そういう時代ですよ。本当にまだモノクロの時代なのに、長嶋茂雄だけがカラーだったんです。周りはみんな白黒なのに、ミスターのところだけ、光輝いていたんですよね。

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