武内陶子さん
武内陶子さん
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 私は小さい頃からたくさんの学校を転々としてきました。父が外科の医者で、瀬戸内を中心にいろいろな病院に勤め、そのたびに家族も一緒に移動してたんですよね。岡山、小豆島、姫路、松山、愛媛の南端一本松町、大洲などなど。私自身の転勤なども含めると転居した数は20カ所ぐらい。結果、幼稚園2つ、小学校3つ、中学校2つ、高校1つ、大学2つとたくさんの「転校」も経験してきました(だからこんな性格になった!?笑)。

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 幼少期はほとんどが、いわゆる田舎。正真正銘の田舎育ちです。最終的に父が愛媛県大洲市に友人たちと病院をつくったので、そこに両親は長く住むことになるのですが、私は小学6年のときなぜか急に「都会に行きたい!!」と父に訴え、そしたら父も「よっしゃ。なら広島のおじさんのところに下宿させてもらって広島の中学に通ってみるか?」とあっさり私を一人で広島に送り出してくれたのであります。なんともまあ独立心旺盛な子どもですが、それを子どもの戯れごとと片付けず、私を手放した父母もすごいなあ、預かってくれたおじもすごいなあと今更ながらに思います。

 今考えると12歳でその決断に至るわけで、なぜだろうと考えてみたら、おそらくすごく濃い経験をした幼少期の12年間だったからかなあと思ったのです。

 なかでも愛媛県の南端、一本松町(現在は愛南町)は面白いところでした。松山から山越え谷越え、たくさんのトンネル通って何時間もかけて着いた一本松町。ここでのわが家の伝説は数知れず……。まず父が勤めることになった一本松病院に行ってみると、「手術室のメスがさびとってなあ、隣町の大きい病院までメスを借りに行ったんじゃ」。

 なにしろ田舎なので、いろいろなことが破格の経験なのです。この地方は「とっぽ話」という、本当かウソかわからないような冗談話をするので有名な土地柄で、みな性格が豪快。つねに大風呂敷を広げて、ガハハと笑いながら「この前なあ、畑掘りよったら、なんかコツーンと当たるけん、何かとおもたら、あんた、地球の裏側のブラジルまで届いちょったわい! わはは〜」みたいな(笑)。また、父が語る田舎の人たちがとても面白く、父は三度の飯より釣りが好きというぐらい釣り好きで、暇があれば近くの海に釣りに出かけていたのですが、診療が終わってから夜釣りに出かけていると「センセ、急患ですらい」と町の人が磯までカンテラさげて迎えにきたとか、いろいろとありました。寂しがり屋で人が好きで、いつもいつもうちには父の友達やら、釣り仲間やら、お客さんがいっぱいで、母が台所に立ってたくさんのおもてなし料理を作っていたことを思い出します。

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