
かつて、室町幕府には「管領」という役職が設置されていた。現在でいうところの官房長官にあたる要職だが、それを4度も辞めた破天荒な武将が、細川政元だ。大抵は一日か二日で辞めていたといい、世間を戸惑わせていたことがうかがえる。
室町末期に詳しい古野貢教授は、著書『オカルト武将・細川政元』の中で、「政元が管領辞職を政治的カードに使った可能性」について言及している。
新刊「『オカルト武将・細川政元 ――室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)」から一部を抜粋して解説する。
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一四八七年、政元は管領に就任しますが、就任したその日のうちに辞任してしまいます。すでに紹介した通り、管領は室町幕府において足利将軍の次に位置する要職で、非常に大きな役割を持っていました。にもかかわらず政元は即辞めたわけです。
理由は諸説あるのですが、足利義尚の行動に抗議して辞めた、という話があります。義尚はこの年に近江国への出陣(六角氏征伐)に際して、誰を連れていくのかを選ぶ必要がありました。その人選により将軍と周囲の人々の関係性や敵味方がわかるのですが、政元は畠山尚順(政長の息子)を推薦したにもかかわらず義尚に拒否されてしまいました。
政元は二つの畠山氏勢力のどちらかにばかり加担したわけではないと書きましたが、この時は義就と対立し、政長・尚順らに味方していたので、尚順をパレードに参加させようとしたのでしょう。しかし将軍に拒否されてしまったため、政元はとりあえず自らパレードに参加したものの、その終了後に抗議として管領の即日辞職という行動に出たのだと思われます。
この行動はかなり問題になるものでした。義尚が将軍で上司だということもあるのですが、それ以上に大御所(先代将軍)である父の義政がいて、また母の日野富子も大きな財力を握って無視できない存在だったのです。政元が幕府を動かすにあたって、彼らの意見を無視することはできません。
細川氏の当主とはいえ、有力者との関係性を重視しなければやっていけないのに、義尚に喧嘩を売ってしまったわけです。普通ならすぐにクビなのですが、そこは実際に幕政を仕切っている細川氏当主。大きなお咎めはなかったようです。
当時の常識として、政元の行動は全く合理的ではありません。せっかく管領になったのですから、病気などの理由で辞めざるを得ないのでなければそのままずっとやっていればいい、と考える方が普通でした。それを「将軍(およびその両親)の意向が気に入らない」程度の感情的理由を口実に辞めてしまうなどあり得ない振る舞いであるわけです。
ましてこの時期は管領をずっと交代で務めてきた三管領家のうち、畠山氏は内紛中、そして斯波氏は没落していたため、細川氏が最有力候補として独占することも可能でした。
身勝手な理由から辞職してしまった政元ですが、公的な役職を重視せず、あくまで自分の思うように動くのだと評価すれば、後世の織田信長と重なるところはあります。
信長は将軍の地位を提示されても受け取りたがらず、また古くて低い役職を称し続けました。同じように、政元にも当時の価値観や常識に縛られず、自分なりの合理性を追求する思いがあったのかもしれません。
あるいは、政治的な思惑を見て取ることもできるかもしれません。管領という非常に重要なポジションを務めることができる立場の人が「私はこの役職にこだわらず、自分の意思でなったり辞めたりを繰り返します」とアピールすることは、ある意味で政権に対する政治的なカードにもなり得るからです。
将軍の拝賀をはじめ幕府のいろいろな行事を実行するにあたっては、管領がいないとできないということになっています。そこで唯一管領になれる人が「やらないです」と言ったなら、「やって欲しかったらこの件について譲歩してください」と交渉条件にすることができてしまいます。本来、管領という役職は自分自身の政権におけるポジションを示し、また名誉や権威・権力を表すものであったのに、政元はそれを政治的なカードにしてしまったのではないかと考えられるわけです。
実は政元は、同じようなことを文明から長享へ年号が変わる(改元)時にもやっています。改元時の吉書始の儀式の際、やはり一日だけ管領になってすぐに辞めてしまっているのです。
現代、改元の際にはいろいろな議論の対象になったり臆測が飛んだりはしますが、結局のところは官房長官が発表することで世間に共有されます。しかし、前近代ではもっと重い意味を持っていました。改元を行うことは時を司ることであり、その権限は天皇のものだからです。
改元の際にはいろいろな行事が並行して行われなければならず、もし何らかのトラブルが起きてうまくいかないとなると改元そのものがきちんと行われなかったことになり、天皇の権威に傷がつくわけです。政元はそれに気づいて「儀式に出ない」と言いだし、政治的交渉のカードにしました。
このあたり、政元が儀式などを通じて自分の存在感を演出しようとしている、という見方もできるのではないでしょうか。
『オカルト武将・細川政元』では、政元が織田信長よりも先に実行した「延暦寺焼き討ち」、将軍追放のクーデターにおける日野富子との交渉などを詳述。教科書には載っていない、応仁の乱から信長上洛までの「空白の100年」を解説しています。
