ここに彼のコミュニケーション観の大きな特徴がある。すなわち論破とは、自分が議論している相手を説得することではなく、そこで自分が相手を論破したということを、第三者に認めさせることなのである。したがって、議論をしている相手が説得されるか否かは、彼にとって本質的に問題ではない。もしかしたら、相手は議論が終わっても、決して自分が論破されていない、説得されてはいない、と主張するかも知れない。しかし、そうであったとしても、その議論においてひろゆきが相手を論破した、と第三者に認められるのであれば、それは彼にとって論破なのである。
論破の成否が、あくまでもそれを認める第三者の判断に基づくのだとしたら、その第三者がどのような人物であるかによって、何をどのように語るのかもアレンジされる。たとえば、第三者が社会的な弱者であれば、そうした人が共感しうるように語るだろうし、それが子どもであれば、子どもでも分かるような簡単な言葉で説明するだろう。またひろゆきは、そもそもそうした第三者が存在しない状況では、議論すること自体を避けている、とも語っている。要するに、相手と一対一で議論しないということだ。なぜならその場合、相手が決して論破されたことを認めなかったとしたら、事実上、相手を論破することは最初から不可能になってしまうからである。
彼は議論において、相手から認められたいと思っていないし、そもそも理解されたいとすら思っていない。それが、議論における彼の怪物のような強さの背景にあるのではないだろうか。