明日をも知れぬ激動の乱世関東。
苦境に陥るたび、本作の昌綱はその時その場所でベストな舞台を作り、そこで最も適切な役を演じてゆきます。
信頼は本来、ガラス細工にも似て、一度壊れたら取り戻すのは容易ではないはず。
ところがまた裏切られ、それでも赦してしまうたびに、謙信と氏康が抱く昌綱への信頼はかえって深まってゆく。そんなパラドックスを描いたつもりです。
シェイクスピアが喝破したように、人生とは劇場であり、人は誰しも大なり小なり演じながら生きています。匿名投稿やアバターなど、現代はまさしく「演ずる時代」かもしれませんが、本作は「演技」を武器に、家臣領民を守り抜いた「役者」武将の生涯を描きました。
サブテーマとして、本作はいわゆる「負け組」の物語でもあります。
昌綱が世に出た時、関東にはすでに圧倒的な強者がいて、最初から勝負が決まっていました。ですから、彼は華々しい成功を収めたわけではありません。巨大勢力に抗しようもなく、苦心惨憺の綱渡りで現状を維持しただけの小領主です。
でも、小さな夢で、何が悪い。人生で何かをやり切ったのなら、誰かを幸せにできたのなら、自分も楽しんだのなら、胸を張ってこの世を去ればいい。
この小説を書き終えた今、私の前から去って行った主人公がそう言っているように思うのです。
なお本作は、平和を希求する主人公を描いた『計策師』の続編でもあります。
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