光輪閣での挙式後、香淳皇后を見送る池田厚子(順宮)さんと池田隆政氏。香淳皇后は、洋装や宮中服ではなく着物で式に臨んだ=1952年10月10日、東京・芝高輪の光輪閣で

 昭和天皇は、軍服を脱いで背広にネクタイを締めた。そして香淳皇后は、娘である皇女の婚礼などに洋装や物資が不足した時代の「宮中服」ではなく、着物で臨む。まだまだ、ドレスよりも着物のほうが馴染みのある時代。香淳皇后の着物姿は、皇室が身近な存在であることを人びとに伝えた。

 一方で昭和天皇への戦争責任を問う声や、天皇制や憲法に疑問を唱える左派勢力が広がるなど、皇室の立場はひどく不安定な時代だった。

 そうしたなかで、1959年に美智子さまが初の民間人からの皇太子妃となると、若い世代を中心に人びとは熱中し「ミッチーブーム」が巻き起こる。美しい皇太子妃の姿を捉えようと、次々と週刊誌が創刊された。

成婚を祝いデパートには飾られた「テニスコートの出会い」を連想させるテニスウエア姿の皇太子さま(上皇さま)と美智子さまの等身大マネキンが飾られた=1959年3月、東京・銀座

 美智子さまと同時に皇室のスターとなったのが、明るい性格からおスタちゃんの愛称で呼ばれた昭和天皇の五女の島津貴子さん(清宮)だった。婚約発表前の誕生日会見での質問に答えた、「わたしの選んだ人を見てください」の言葉は流行語にもなった。

 ミッチーブームと同じように、「貴子さんのモード・コレクション」といったグラビア特集も組まれた。貴子さんは、テレビやラジオなど、さまざまなマスコミに登場し、国民と皇室の懸け橋となった。

 若い女性たちが新しい皇室世論の担い手となったことは、皇室にとってもよい方向に作用していた。

 というのも、「大衆天皇制」とも呼ばれたこの皇室ブームに日本が沸いてもなお、過激派などが反皇室闘争を掲げ、ゲリラ事件が頻発していた。

「そうした反天皇制からの言及を回避しながら、同時に皇室への興味・関心を維持する装置として、女性皇族が機能したと考えています」

 若い女性皇族のファッションを中心とする明るい話題は、メディアも受け手も関与しやすい。脱・政治化した話題だからこそ、左派からの警戒も薄かった、と石田さんは話す。

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