愛子さまが学習院大学を卒業する日の朝、テレビは「愛子さまがピンクの振袖姿」と速報を出した。大学の敷地で、十六葉八重表菊の菊紋が両袖に入った格式の高い三つ紋の本振袖に紺袴姿でにっこりとほほ笑む愛子さま=2024年3月20日、東京都豊島区の学習院大、JMPA

「興味深いのは、皇位継承権を持たず、皇室での明確な『役割」が規定されていない女性皇族が、国民と皇室を結び付けてきたという点です。その構図は戦前から令和のいままで大きくは変わりません」(石田さん)

 女性皇族の存在こそが、皇室を支え続けてきたともいえる。

 皇室のファッション報道といえば、「ミッチーブーム」以降のことだと思いがちだが、皇室情報の氾濫は珍しいことではなく、それ以前から存在している。

 明治の終わり頃から急増した皇室グラビアは、「ブロマイド」としての役割を持っていたし、親しみやすさを伝える記事やスナップ写真などは、戦前から大量に流通していた。

 そこには、皇室ファッションと政治が生々しく結びついた時代背景があった。

 石田さんによれば、日本における洋装の普及は、徴兵制を課せられた男性の方が比較的早く、一般の女性の間に広く浸透したのは、太平洋戦争以後のことであった。

軍服と洋装で写真を撮影する大正初期の梨本宮家。左の伊都子妃は鍋島直大侯爵の2女、右の長女・方子女王は朝鮮王族の直系王世子・李垠と16歳で結婚する。中央手前は次女・規子女王=撮影日不詳、東京市渋谷区原宿

「近代皇室における正装は洋装。とくに、天皇の軍服姿は広く国民に知られました。ドレスに身を包んだ皇后や子どもたちの洋装写真は、庶民との違いがひと目でわかるものでした。それは、『皇室が特別な存在である』との印象づけに、非常に効果的であったといえます」

 人びとは、洋装化した皇室を目にすることで日本の近代化を実感した。

 太平洋戦争が激化し物資欠乏時代に入った1943年ごろには民間の「洋装」は軽佻浮薄、享楽的の象徴とみなされ、皇族女性の「洋装」と齟齬をきたした時期もあったものの、近代皇室における洋装は、日本における西欧化のシンボルとしての役割を果たす存在であった、と石田さんは話す。 

 その後、1945年の敗戦によって皇室は先の見えない時代に入ってゆくが、皇室と人びとの懸け橋となったのも、やはりファッションであった。

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