
欲や煩悩があっていい
上田:さて、最後に皆さんから、令和の時代に『空海の風景』をどのように読んでもらえたらいいか、ご提言をいただけますか。
澤田:辻原さんがおっしゃるように、この作品は「空海はどこにいるのか?」という疑問があって、それを小説的手法でも、論述的手法でもなく、司馬さん自身が作品のなかに入って、司馬さんと一緒に、読者が空海を追い求め、検討できる作品です。情報に簡単にたどり着ける時代だからこそ、「自分は何によって知っているのか?」ということを問い直す。そのきっかけになるのが本書ではないかと思います。
釈:「おそらく人類がもった虚構のなかで、もっとも完成されたのは大日如来じゃないか」とか、宗教心、信仰、仏教、密教を語るときの語り口がとにかくキレッキレなんですよ。きっと皆さんが見えない世界に心を伸ばすときに、大きな導きとなります。
この作品で、空海は何度も前言をひるがえしますね。空海は変わりつづける。変われるというのは、人間にとってすごく大事だということを、読み取っていただければと思います。
辻原:この小説の魅力は司馬遼太郎自身がこの本のなかに書いています。《空海があこがれたのが、一面では仏教の理論的世界であり、一面では孔雀咒(しゅ)のようなものであったことは、風景としておかしみがある》。天王寺動物園の孔雀ですよ。まさに、そういう本だと思います。
磯田:空海は「欲とか煩悩とか悩みとか、あるのも、自然の姿だよ」といってくれている。これはありがたい。苦も悪も大宇宙の自然な要素として受け止める教えの救いです。そういうのが言いたくて、あんな大がかりな宗教の拵(こしら)えをつくった人なのかなと思っています。
(構成/フリーライター・浅井聡)
※AERA 2025年3月17日号より抜粋

