のちに『ザ・ベースメント・テープス』と呼ばれることになる大量の音源を残したウッドストックでのセッションは、1967年9月までつづいた。そのうちのいくつかは版権管理会社が売り込みに使うためのデモ音源としてプレスされていて、それらをもとにブートレッグ=海賊盤がつくり出されることになる。実際、何組かのアーティストがそこから曲を取り上げていて、またザ・バンドは翌年発表のデビュー作『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』に《アイ・シャル・ビー・リリースト》など地下室テープ関連の3曲を収めているのだが、ディラン自身はなにごともなかったかのように、10月にはもう、ナッシュビルで次の新しい一歩を踏み出していた。そして、その年の暮れにはそこでの成果を世に送り出している。『ジョン・ウェズリー・ハーディング』だ。
ウッドストックでのセッションがあったからこその流れだと思うが、その67年秋のナッシュビル・レコーディングは、ベースのチャーリー・マッコイとドラムスのケニー・バットリィを迎えただけという、きわめてシンプルな内容のものだった。二人はともにナッシュビル産の数多くのレコードに貢献してきた実力派で、『ブロンド・オン・ブロンド』にも参加していた。プロデューサー、ボブ・ジョンストンの提案で2曲のみピート・ドレイクのスティール・ギターが加えられてはいるが、いずれにしても、「ぎりぎりまで無駄を削ぎ落とした」という常套句を使いたくなるほどのシンプルさだ。しかも録音に費やされたのは、わずか数日、時間にして計半日ほどだったという。
タイトルにあるジョン・ウェズリー・ハーディングは明らかに人名だが、特定の人物を指すものではないという。エリック・クラプトンが最近作『アイ・スティル・ドゥ』で取り上げた《アイ・ドリームド・アイ・ソウ・セイント・オーガスティン》もそうだろう。本連載では歌詞の内容や意味は勝手に解釈しないようにしているが、ディランの歌はこの時期からよりストーリーテラー的な要素が増したように感じている。キャラクターが浮かび上がってくる、といってもいいだろう。
多くの研究家たちがバイブリカルと指摘する《オール・アロング・ザ・ウォッチタワー》はジミ・ヘンドリックスが『エレクトリック・レディランド』に収め、シングル・ヒットも記録している。発表は翌68年の秋だが、じつは最初の録音は1月に行なわれていた。つまり、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』が世に出た直後。なにかきわめて強く訴えるものを感じたということだろう。
以来、何本ものギターが鳴り響くジミのヴァージョンがある種のテンプレイトとなり(基本的な部分で2つのヴァージョンには大きな違いはないのだが)、デイヴ・メイスン、U2、ニール・ヤング、デイヴ・マシューズなど多くのアーティストによってカヴァー・ヴァージョンが残されてきた。ディラン自身も刺激を受けたと語っていて、公式サイトによると、ライヴでの演奏回数は2,300に迫ろうとしている。これは《ブロウイン・イン・ザ・ウィンド》や《ライク・ア・ローリング・ストーン》よりも大きな数字だ。[次回10/12(水)更新予定]