若手を成長させた「育成力」が機能不全に
西武は「暗黒期突入」の危機を迎えている。昔から応援してきたファンにとっては、目を疑う状況だろう。西武は黄金時代の1985年からの10年間でリーグ優勝を9度達成。89年に近鉄にわずか0.5ゲーム差で逆転優勝を許したが、この年も優勝していれば、巨人のV9を超える「V10」を達成していたかもしれない。
93年オフにFA制度が導入されると、毎年のように主力選手が他球団に移籍したため絶対的な強さはなくなったが、それでも優勝争いには毎年のように食い込んだ。14年から3年連続Bクラスに沈んだことはあるが、辻発彦元監督が就任した17年に2位に躍進し、18、19年にリーグ連覇を達成。秋山翔吾(現広島)、浅村栄斗(現楽天)、山川穂高(現ソフトバンク)、森友哉(現オリックス)、中村剛也、栗山巧ら強打者をそろえた「山賊打線」を形成し、当時若手だった源田壮亮、外崎も高い守備能力と機動力で貢献した。
18年オフに浅村が楽天にFA移籍したが、翌19年は前年を上回る12球団最多の756得点をたたき出した。中村が123打点、山川が120打点、森哉が105打点と球団史上初の3選手100打点超え。森が首位打者、山川が本塁打王、中村が打点王、秋山が最多安打、金子侑司が盗塁王と、打撃の個人タイトルも独占した。
当時西武と対戦したパ・リーグ球団の投手は振り返る。
「今まで対戦してきた中で、最も怖い打線でしたね。長打力のある打者が並んでいて、足を使える選手もそろっている。どこからでも点が取れるので、セーフティーリードがなかったですね。実際に6点リードの試合終盤に西武打線が爆発して逆転負けを食らったこともありました」
西武の強さの源は育成力だった。生え抜きの選手が次々とチームの主力に育った。球界を代表する遊撃として活躍した松井稼頭央(前監督)がメジャーに挑戦すると、中島宏之が後継者になったように、主力が抜けた後は若手がすぐに後を担った。
だが、このサイクルが危機を迎えている。渡部健人、蛭間拓哉、山村崇嘉と期待の若手たちが殻を破れず、外野は数年間も全ポジションでレギュラー不在の状況が続いている。