その施設には入所者たちの趣味のサークルがいくつかあって、入所者の多くが女性であるため、女性向けのサークルばかりだった。その男性は「自分が楽しめるサークルがない」と言うのだ。

「では、あなたの趣味はなんですか?」と聞くと、「囲碁だ」と答える。実は私も囲碁が趣味で、さっそく施設長として囲碁好きを募り、囲碁サークルを作った。数人の男性が集まったと思う。すると、その男性は人が変わったように、生き生きとしてきた。私が毎朝、回診に行くと「先生、早く囲碁を打ちましょう」と声をかけてくる。「いや、まだ私は回診中だし、ほかにも仕事があるのですよ」と答えても、「わかっています、先生。それが終わったらやりましょう。待っていますから」と熱心に誘ってくる。本当に待っているので、ほぼ毎日、囲碁に付き合わされる羽目になった。

 その施設は一時的に入所するところなので、ずっといることは原則できない。健康状態が良くなれば自宅に帰るものなのだが、その男性はすっかり元気になっても帰りたがらない。家族が迎えに来ても「ここには囲碁をする仲間がいて、毎日楽しいから帰りたくない」と言うのだ。

 最終的には家族に連れられて自宅に帰っていったが、医師として病気を治したり、症状を軽減させたりといった医療行為をしなくても、楽しいことができる機会を提供するだけでこれほど元気になるのかと驚かされた。

 これは一例に過ぎないかもしれないが、高齢者の健康を語る上で重要なことを教えてくれていると思う。この男性にとって、囲碁は生きがいだったのだ。この生きがいの重要性については、本書で再三述べていくことになるのでここでは詳細を省くが、読者も自分にとって生きがいとは何だろうか、と考えてみてほしい。

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