小さいころから、人に言われた通りにはやりたくなかった。「皆がやっているから」というのも嫌だった。それに父はたまに叱りその理由を考えさせた(写真/山中蔵人)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2025年1月27日号では、前号に引き続き日本赤十字社・清家篤社長が登場し、「源流」である東京都大田区東雪谷に残る実家などを訪れた。

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 生まれ育った家というのは、それぞれに、様々な形で心に残る。ひと言やふた言では、なかなか語れない。1954年4月に生まれ、東京都大田区東雪谷で育った家は、建築家だった父・清家清氏が自ら設計した。

 コンクリート造りで約15坪。自宅だから自分の理想を存分に実現し、「機能的なものが一番美しい」という考え方から装飾など不必要なものは徹頭徹尾、排した。

 例えば、家の中に扉が一切なく、トイレにもない。真ん中が広いリビングスペースで、端のほうに台所とトイレが壁を隔ててあり、反対側に両親の寝る場所。大きな屋根で全体を覆い、屋根をハブマイヤートラスと呼ぶ鉄の梁で支えている。住居はいま国の登録有形文化財に指定され、大学教授らが月に1度ほど見学会を催している。

 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

 昨年12月初め、東雪谷に残る実家を、連載の企画で一緒に訪ねた。清家篤さんにとって、合理性を尊んだ父の設計した実家での体験が研究者として歩む『源流』になったかもしれない、と言う。父が「私の家」と呼んだ家屋は、ほぼ当時のままだ。屋内に入ると、台所やトイレがある区画と仕切る壁が、残っている。そこで振り返った。

「私はあまり人の言うことを聞かない子どもだったから、記憶は鮮明ではないけれども何か父の言うことを聞かないで叱られて、『何で叱られたか、その壁のほうをみて考えてごらん』と座らされました」

叱られた自分も叱った父の方も忘れてしまった理由

 壁へ向かって座ると、そのうちに考えごとをして、なぜ叱られたか忘れてしまう。父も別なことをしているうちに言ったのを忘れ、気がついて「まだ座っていたの、もう考えたかい?」で終わった。教育のためとかではなく、儀式のようだった。

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人間臭くて面白い人々が働くことと企業が雇うことの分析