大阪放送局勤務時代の上司と(武内さん提供)

「どうして私はマイクを持っているのか」

 阪神・淡路大震災が起こった1995年1月17日。当時私は大阪放送局に勤務していました。新大阪駅近くの東三国の自宅も揺れて、テレビ台からテレビが落ちたり、揺れで窓が開いてしまったり。そして私は、発災直後の被害状況から復興への道のりまでを「伝える人」として関わりました。しかしその道のりは、アナウンサーとしても楽な道ではなかった。毎日毎日、どうあるべきなのかたくさん悩みました。

 夜通しスタジオから安否情報を読み続けたり、ニュースを伝えたり、できることをみなで手分けしてやりました。被災現場に取材に入り、中継もやりました。そんなとき、ボランティアをしている人の横でどうして私はマイクを持っているのか、どうして手伝えないのか、手伝わないのか、悩みに悩みました。被災地の状況をいち早く伝えるという仕事がとうていその場の役に立っているとは思えず、無力感に苛まれ、この仕事を辞めようと思ったことも一度や二度ではありませんでした。

 しかし実際は、伝える側も毎日が闘いで、立ち止まって考える余裕は全然ありませんでした。発災直後は何が何だかわからない状況を日々伝えることに必死で、少したつと生活を中心としたみなさんの困り事や、日々必要なことを伝えるようになり、どんどん変化していきます。放送局も震災から2週間、1カ月と時間が過ぎていくと、全国から応援にきていた人たちも自分の持ち場に帰っていき、あとは現地の放送局が継続して伝えていくことになります。伝える側も、災害報道から復興をいかに支えていくかという段階に入っていきました。

 生活の基盤が整わない中、子どもたちは避難所から学校へ通い、大人は昼間は働きにいく。避難所に残されたおばあさんがたった一人、畳の上でカップ麺をすすりながら「あったかくてうれしい……」と涙を流しながら感謝しておられた姿が今でも忘れられません。切なかった。

 ことほどさように、生活を営みながらの復興は並大抵のことではなく、伝える側の私は落ち込むばかりの日々。本当の震災報道はそこから、と言ってもよかった。

 アナウンサーになって4年目だった私はいったい何ができるのか、毎日葛藤の中にありました。

 ちょうど震災から2カ月がたとうとしていた頃だったでしょうか。私は、たくさんあった避難所を回り、なんでもいいから「明るい話題」を見つけて伝えることを企画します。タイトルは「明日に向かって」。ベタなタイトルですが、とにかく前に進んでいかなくちゃという真っすぐな気持ちからでした。ニュースのデスクからも「やってみれば」という許可をもらい、チームを組んで日々そのことに取り組みました。

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一番つらいのは、明日の自分が見えないこと