重三郎が生まれた頃には、大金を落とす上級武士や豪商は減り、吉原の収益は減少の一途をたどっていました。太夫(最上級遊女)も姿を消し、芸も教養もない下級遊女が激増し、時間単位で安く体を売るようになりました。岡場所(私娼窟)と大差がなくなったわけです。
経営者たちはどうにか客を集めようと、俄などの楽しい年中行事を多く設けるなど工夫をこらしました。そんな斜陽産業の再生を、重三郎は吉原の有力者たちに託されたのではないでしょうか。
重三郎はその期待に応えるべく、戯作者や絵師を吉原で接待し、吉原に関する文学や絵画をつくらせました。 ところが、老中の松平定信が寛政の改革で厳しい規制をかけたことで、吉原は火が消えたようになってしまいます。
そうしたなか重三郎が、嫌がる戯作家や絵師をかき口説き、幕府の忌諱に触れる吉原作品をつくらせたのは、遊廓の窮地を救うためであり、官憲の弾圧への密かな抵抗だったのではないかと思うのです。しかし四十八歳のとき、重三郎は病のためにあえなくこの世を去りました。
狂歌仲間の石川雅望が刻んだ重三郎の墓碣銘(故人の生涯や功績を記した文)が今に伝わっています。そこには、「志気英邁、不修細節、接人以信……」とあります。
「志が大きく才知に優れ、小さなことにこだわらない大きな度量を持ち、人には信義をもって接する人物」という意味です。
歴史に〝イフ〟はありませんが、もし才知に優れた重三郎が病に倒れず、その後もメディアを駆使して吉原をプロデュースし続けていたら、ひょっとしたら吉原の衰退はなかったかもしれない、本書を書き終えたいま、つい、そんな想像をしてしまいます。
一冊の本 1月号
『蔦屋重三郎と吉原 蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実』 河合敦 著
朝日文庫より発売中