バスケットボールは、中学校で始めた。その体育館にも寄って、シュートをしてみた。ほぼ半世紀ぶりで、なかなか入らない。でも、いい汗をかいた(撮影/狩野喜彦)
バスケットボールは、中学校で始めた。その体育館にも寄って、シュートをしてみた。ほぼ半世紀ぶりで、なかなか入らない。でも、いい汗をかいた(撮影/狩野喜彦)

「私は親が自由放任で、好きなように過ごしました。バスケットボールひと筋で、勉強もたいしてやらず、将来は何になりたいという夢もとくになかった。確たるものもなく会社に入り、東京で仕事をすることになるなど、想像もしなかった。でも、いまとなっては、それがよかった気がします。すべて、自主性に任されました」

 神戸で過ごした日々、「その先」は何も描かれてなく、真っ白だった。それが自由に過ごす道を選ばせ、自主性の大切さを心に刻ませた。不思議な力だ。

 校舎内の階段を上り、屋上へ出た。神戸の街と港、背後に六甲の山々が望める。在学中はあまり来たこともないが、素晴らしい眺めだ。そこで高校時代の最高の思い出を尋ねると、「やはり、バスケットで県内のベスト4になったことかな」と返ってきた。帰り際に「高校へきて、気持ちが若返ったでしょう」と問いかけると、即座に「もちろん」と言い切った。

 高校入学は1969年で、卒業は72年。校舎や体育館に入ったのは卒業以来だから、実に51年ぶり。そう気がつくと、「そうか」と遠く港をみつめた。

■心に在り続けた美しい摩耶山娘の名に付ける

 この日の朝、故郷は、よく晴れていた。社会人人生で様々な出来事に遭遇し、挑み、乗り越えてきたとき、『源流』が礎となって支えてくれた。その神戸で最初に向かったのは、両親や4人の兄と暮らした実家があった神戸市灘区灘南通5丁目だ。

 近くの路地で車を降りると、すぐに玄関があった国道2号側へ歩き出す。目の前で国道が南へカーブし、三叉路になっている。「ここを、路面電車が走っていました」と言うと、懐かしそうな目線になった。

 風景は変わり、周辺にマンションが並ぶ。しばし自宅があった場所をみつめ、「入り口はこのあたりで、ちょっとした庭の奥に建物がありました」と、自問自答のように口にする。北方を振り返って「あれが六甲山系の摩耶山で、よく登って一番思いが強いので、生まれた娘の名前に『まや』と付けました。字は変えましたが」と明かす。故郷のキーワードは「摩耶山」、歩道橋の上からきれいに見えた。

 1954年1月に生まれ、77年に入社した後も3年間、実家から通勤した。東京へ転勤してから、帰省は年2回くらい。30歳になるころ、両親が相次いで亡くなった。阪神・淡路大震災で建物が被災した後、更地にして処分した。2007年、社長になる4年前に両親の墓参りにきた。再訪はそれ以来だが、場所は忘れていない。自分のなかで「神戸」が、生き続けている。

 母の存在も、大きい。実家跡へ帰ってきてひとこと言えば、「今日あるのは、あなたのお陰です」だけだ。男の子5人を育てるのはたいへんだった、と思う。時代が違い、母はひたすら耐え忍んでいた。いろいろなものが便利になったいまと違い、一人ひとりに構ってはおられず、自主性に任せた。

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