
ベートーベンに重ねる
「ハンマークラヴィーア」は、09年のヴァン・クライバーンでも演奏した曲だが、当時は曲を深く理解するには至らず、弾くことに必死だった。15年が経ち、曲を通してベートーベンが抱えていた苦しみや葛藤にも触れられた気がしている。
「この曲が作られたとき、ベートーベンは耳が聴こえなくなっていた頃で、そうした境遇は少し自分にも重なるところもあります。『ベートーベンはこうして自分と闘っていたんだ』という気持ちになりましたし、最後は『闘いに勝利した』という感じで曲が終わる。今回のレコーディングでは、そうした自分なりの理解とともに曲と向き合うことができました」
曲を通して、作曲家の人生や時代背景を知ることができるのも大きな喜びだという。テレビ番組の収録などで、作曲家が使っていたピアノに触れたり、実際に歩いていた散歩道を歩いたりすることも、曲の理解を深めることに繋がる、貴重な経験だと感じている。
ツアーで初めて訪れる街を散策することも楽しみの一つ。
「食べることが好きなので、日本でも海外でも地元のレストランには行くようにしています。『これがおすすめですよ』と声をかけてもらうなど、地元の方々と交流することもツアーの楽しみの一つですね」
アルバムの収録を行ったベルリンでは、ビールを飲み、ソーセージをたくさん食べ、エネルギーチャージをしたという。本記事の写真撮影中も、ツアー中に食べたものの話で、スタッフと楽しそうに盛り上がっていた。
経験してきたこと、出会った人々と積み重ねてきた時間。それらすべてが、辻󠄀井さんの情感あふれる美しい音色を生み出している。
(ライター・古谷ゆう子)
※AERA 2024年12月2日号