取材中も、まるで演奏しているかのように指を動かしていた。「ピアノを弾く楽しさはずっと変わらないですし、ピアノを嫌いになったことがないんです」(撮影/写真映像部・和仁貢介)

母の言葉に支えられ

 ベートーベンの曲は多くの録音が残っているため比較もされやすい。そんな中でも自分の音楽を追求し、いいものを作りたいという気持ちが強かった。

「録音も納得がいくまで行いましたし、編集にも時間をかけました。何度も聴き直し、『これでいいのだろうか』と自分に問いかけていました。最終的に悔いの残らないCDができたので、いまは本当にホッとしています」

 辻󠄀井さんがヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝し、その名を世界に知られるようになったのは2009年、20歳のとき。幼い頃から“決して諦めない性格”で、コンクール前に自身が思い描く仕上がりにたどり着いていなくても、「諦めなければ絶対にいい演奏ができる」と信じ練習を重ねた。「いつも通りやれば大丈夫だよ」という母からの言葉にも長く支えられてきた。

 演奏前は変わらず緊張するが、照明が暗くなるとスイッチが入り、少しずつ本番モードになる。緊張が集中力を呼び覚まし、ひとたび音を鳴らし始めると、演奏することの“楽しさ”が勝るのだという。

 表舞台に立つようになってからの「変化」を、自身はどのように捉えているのだろう。

「20歳の頃は若さもあって、勢いのある演奏をしていたと思います」と振り返る。

「それはそれでいいところだったのかもしれませんが、経験を重ね、表現の幅が広がり、音色の種類も増えてきたように思います」

 辻󠄀井さんの言葉を借りれば、「ピアノは基本的に押せば音が出るもの」。けれど、腕の使い方やペダルの踏み方によって音色はまったく異なるものになる。

「ベートーベンの時代のピアノといまのピアノはまるで違うものなので、彼が書いた通りのペダルの使い方をすると思うような音が出ないこともあります。楽譜に書かれている通りに弾くことはもちろん大切ですが、楽譜に書いてあることを知ったうえで、自分なりの解釈を加え、『こんなことも試してみよう』と、自分の感覚も大切にできるようになった気がします」

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