芸人で作家の又吉直樹は、『火花』で芥川賞を受賞する前から、テレビ番組や雑誌で本の魅力について何度となく語っていた。その語りは訥々としたものであっても、紹介する作品を彼がきっちり精読した上で愛でていることは、はっきりと伝わってきた。書物、特に小説に淫してきた者ならではの気配を感じ、その点については同じように生きてきた者として好感をもった。
 又吉の最新刊『夜を乗り越える』は、彼の「愛書論の集大成」のような一冊だ。中学時代に初めて文学に遭遇したときの感覚をはじめ、なぜ本を読むのかという問いに、自身の体験をからめて丁寧に答えている。その中で興味深いのは、日本近代文学への熱のこもった高評価だ。
〈悩んで悩んで文句を言っている人の言葉の方が響きやすかった。近代文学は僕にとってまさにそれでした〉
 学生時代だけでなく、売れない芸人として過ごすパッとしない日々に抱きつづけている感情を、太宰や芥川や漱石らとっくに亡くなっている作家が言葉にして書いている。理想と現状のギャップに悩み、時に怒り、時に苦悩に溺れかかる登場人物たち……。そこで出逢った言葉はいつしか自分の人生や生活の実感と結びつき、この本のタイトルどおり、暗黒の夜を乗り越える力となっていった。又吉は文学に救われて生きてきたのだろう。
 思えば、『火花』もまた若手芸人の苦悩を描いた作品だった。読む人は書く人になり、現在どこかで悶々としている若者へ救いの言葉を投じてみせた。そしてこの本を通し、生き延びるための古くて新しい手段として文学の効用を説いた。ぜひ学生に読んでほしい。

週刊朝日 2016年7月1日号