だが、同23日の横浜戦では2回途中4失点KO、同30日の広島戦も2回途中5失点と2試合続けて炎上し、登板わずか4試合でシーズンを終えた。

 翌01年は韓国で2年連続最多勝の鄭珉台も入団し、趙成珉と併せて韓国出身投手だけで外国人の1軍投手枠を超えるという前代未聞の事態になる。限られた出場機会のなか、鄭は前年より多い8試合に登板し、40回で28三振を奪うなど1勝2敗の成績を残したが、同年限りで退団。帰国して古巣・ハンファに復帰した。 

 鄭のあとに30番を着けたのは、中日戦力外になった武田一浩だ。5月7日の中日戦で6回を2失点に抑え、史上3人目の全12球団勝利を記録するなど、先発で2勝を挙げたが、夏場に古傷の右膝が悪化して無念の離脱。同年限りでユニホームを脱いだ。

 武田のあとは、03年に入団したゲーリー・ラスが30番を継承した。前年、韓国・斗山で16勝を挙げた左腕も、巨人では先発ローテに定着できず、3勝4敗、防御率4.14と不本意な結果に終わった。

 5年間で4人というめまぐるしい変遷を経て、04年からは入団3年目の左腕・林昌範が96番から30番に“大出世”も、「苦労」とも読める96番を気に入っていた本人は「変えたくなかった」という。

 04年は17試合に先発して3勝9敗と振るわなかった林だが、翌05年はセットアッパー、抑えとして登板54試合で2勝2敗18セーブ15ホールドと一躍リリーフエースに。06年にも自己最多の62試合に登板し、4勝20ホールドを記録すると、原辰徳監督に「岩瀬(仁紀)のようになれ」と言われ、背番号も岩瀬と同じ13番に変わった。

 林のあと、30番は西村健太朗に引き継がれる。前年14試合に先発した西村は、07年はリリーフとして8月にリーグタイの月間17試合登板を達成するなど、チーム最多の57試合に登板。江川の背番号を継承した林、西村が、先発よりリリーフで結果を出しているのは、皮肉なめぐり合わせとも言えるが、西村も10年に前インディアンス・小林雅英の入団に伴い、30番を譲ることになった。

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