――東京の情報番組にゲストで呼ばれるときもありましたよね

 東京はめちゃめちゃアウェーでした(笑)。大阪では知名度があったから笑ってもらう空気感があったんですけど、若手のときのレギュラー番組はすべて関西ローカルなので、関東の人は僕らのことを知らないんですよ。いきなり「笑っていいとも!」にゲストで出ても、「こいつら、誰やねん」と(笑)。何を言ってもウケないし、空回りしていました。タレントや俳優さんたちも僕らを知らないので、戸惑っていたと思います。そんな状況でも「関係あるか!」って、どんどん前に出ていかなきゃいけなかったけど、なかなかできなくて。渡辺も僕に輪をかけて前に出ないタイプだったので、「どうしよう、どうしよう」となっている間に放送が終わってしまう。力不足でしたね。

仕事がない状況にパニックに

――1998年12月に1度目の解散をします。理由は、仕事が減ったからでしょうか

 そうですね。翌週のスケジュールを確認したとき、出演番組が関西のラジオ番組「MBSヤングタウン」の1本だけになってしまって。年を重ねて振り返れば、我慢する時期だったかもしれませんが、デビューしてから順風満帆で下積み期間も短かったので、仕事がない状況にパニックになってしまって。「食べていけへんから、辞めなあかん」と僕から渡辺に伝えました。

――その後はピン芸人で活動されていましたね

 コンビを解散したときに最初は芸人の気持ちが分かるし安定した収入が入ってくるので、「吉本興業のマネジャーになりたい」と会社に言ったら、「なれるか!」と断られたんです。ピン芸人をやりながら知り合いの芸能事務所でマネジャーをしていたんですけど、その芸能事務所から「芸人やるかどっちかにしてくれ」と言われたので、収入面のことを考えて芸人を辞めようと。でも松本人志さんにその話を聞いた渡辺から、「もう一回やらへんか」と言われ、2004年にコンビを再結成しました。

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M-1グランプリにピン芸人・街裏ぴんくさんとユニットコンビを組んで