――11年に渡辺さんが落語家を目指すため2度目の解散になりました。山下さんは17年に芸人引退宣言をしましたが、21年のM-1グランプリにピン芸人・街裏ぴんくさんとユニットコンビを組んで「山下ぴんく」で出場しましたね

 芸人を辞めた後にライターをやっていて、M-1のチャンピオンに毎年インタビューをしていたのですが、予選から見ていると、「ずっと青春をしているな」とうらやましくなって。僕の1年後輩の「中川家」がM-1初代チャンピオンになったんですけど、そのとき僕はM-1出場資格の10年を超えていて舞台に上がれなかったので、もう一度挑戦させていただきました。ぴんくさんとはまったく面識はなかったのですが、この人は面白いと思ってSNSで誘ったんです。

 舞台を重ねて手ごたえはあったんですけど、M-1グランプリの2回戦後にインタビュー取材を受けたとき、「今年がもしダメでも来年頑張りますよ」と僕が言ったら、ぴんくさんは「その話はここではちょっと…」ってにごされて。後々聞いたら、あるライブに出たときに僕が「お客さん少ないなあ」と漏らしたら、ぴんくさんは「呼んでいただいた主催者に失礼やろ」と内心思ったみたいで。そのときにコンビで続けるのは難しいと感じたみたいです。悪気はなくノリの部分もありましたが、僕が悪かったです。

松本人志は「いつまでおもろいこと言うねん」

――山下さんが「この人にはかなわない」と感じた方はいますか?

 ほとんどですよ。僕は「ダウンタウン」さんに憧れてこの世界に入ってきたんですけど、芸人になってから松本さん、浜田(雅功)さんのすごさをあらためて感じました。お二人のワードセンスやスピード、他の芸人を面白くいじって取る笑い。年を取るとスピードが落ちたりするんですけど、お二人はまったく落ちない。松本さんに対しては「いつまでおもろいこと言うねん」って思います。私生活からかわいがってもらいましたし、感謝の思いしかないですね。

 あとは新庄剛志(日本ハム監督)ですね。彼が阪神でプレーしているときから30年以上の付き合いで、バリ島に(新庄監督が住んでいたとき)も遊びに行きました。自由に生きて夢をかなえています。12球団合同トライアウトを受けなきゃ監督になれなかったと思うんですよ。彼の生き方に刺激を受けて、僕もM-1に挑戦したところもあります。生き様がかっこいいですよね。

(聞き手・平尾類)

暮らしとモノ班 for promotion
ヒッピー、ディスコ、パンク…70年代ファションのリバイバル熱が冷めない今