「在宅医療をやってよかった」

 とはいえ、ここまでの道はけっして平坦なものではなかったと永井医師は振り返る。

「ぼくはしくじってばかりの、しくじり先生です(笑)。在宅医療の走りだったので、『出る杭は打たれる』でさまざまな場面でたたかれましたし、だまされたこともありました。七転び八起きならぬ、十一転び十二起き。それでも在宅医療をやってよかったと思う場面は数え切れないほどあります」

 たとえば、「最期にビールとすしが食べたい」と言った91歳の男性患者がいた。入院していた病院で点滴栄養を受け続け、口から食べることができなくなっていた。永井医師はこの患者を引き受け、点滴をやめて口から食べるリハビリを始めた。次第に、やわらかいものをのみ込めるようになった。

「それでクリニックの調理師がムース状のすしを作ってくれたんです。口の中にいれるととろけるんです。91歳のおじいちゃんは、ビールを飲みながら『うまい~!』って喜んでくれてね、ご家族もぼくらもみんながうれしかった。あのまま病院で点滴を続けていたら、この笑顔はなかったんです。あきらめずに頑張ってよかったと、心から思いました」

『ねこマンガ 在宅医たんぽぽ先生物語 さいごはおうちで』(永井康徳/著、主婦の友社)は、永井医師がモデルの「たんぽぽ先生」が主人公。在宅医療で出会った患者や家族とのあたたかなふれあいが、ほっこりした優しいマンガで描かれている ©ms‐work〔Nekomaki〕

 永井医師が、医学を志す学生たちに伝えている言葉がある。

「動機善なりや、私心なかりしか」

 何かを始める動機が、自分の利益であってはならないという意味だ。京セラやKDDIの設立者である稲盛和夫氏の言葉である。

「確かに開業医には、経営者としての側面があります。在宅医療は初期投資が少なくてすむので、参入するクリニックや企業も増えています。しかし実態は玉石混交。医師やスタッフの数を減らして酷使したり、医師の都合だけで訪問日を決めたりするところもある。これでは在宅医療の質が下がって信頼を失います」

 永井医師は全国各地からの見学や研修医を受け入れ、自身の理念やノウハウを惜しみなく伝える。

「ぼくが引退したら終わるのではなく、若い人たちが受け継いで各地に根づいてくれたらうれしいですね。たんぽぽの綿毛のように」

永井康徳/医療法人「ゆうの森」理事長。「たんぽぽクリニック」医師。2000年に職員3 人・患者ゼロから在宅医療専門クリニックを始める。医療、介護、リハビリなどの多職種チームで協働し、在宅医療の質を高めることを目指している。

文/神 素子

※AERAムック『医学部に入る2025』より

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