19世紀後半のロシア。アントニーナ(アリョーナ・ミハイロワ)は高名な作曲家チャイコフスキー(オーディン・ランド・ビロン)に盲目的に恋をし、結婚を果たす。が、女性に愛情を抱いたことのない彼との結婚生活は暗澹たるものになり──。ロシア出身の鬼才監督が天才作曲家の実像に迫る「チャイコフスキーの妻」。脚本も務めたキリル・セレブレンニコフ監督に本作の見どころを聞いた。
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平均的なロシア人はその人生をチャイコフスキーとともに始めるといっていいでしょう。幼稚園でピアノ曲「白鳥の湖」を聴かされ、その後も偉大な作曲家として学ばされる。しかし私は途中で「おかしいな」と気づきました。1988年にペレストロイカが起こったとき、テレビ局が連日「白鳥の湖」を流し続けたんです。自由のシンボルとして政治的にチャイコフスキーが使われていた。彼をシンボルとして利用する状況にメスを入れたいと、本作を作りました。
当初は文化省から資金援助を受ける予定でした。が、信じられないことに担当者が言ったのです。「チャイコフスキーの真実を描く作品は作ってほしくない。プロパガンダとして作ってほしい」と。私は資金を全て返却し、インディペンデントで作ることにしました。
チャイコフスキーのセクシュアリティーについてはロシアの人々もなんとなく聞いてはいます。ただ誰も真実を知らない。本作の主人公である妻・アントニーナと同じです。「ん?」と感じながらも確かめる術を知らなかった。それが悲劇につながります。彼女の経験を通して人々にあからさまでなく「そういうことかも」と感じてもらうことが私の意図です。伝記を作ろうとは思いませんでした。チャイコフスキーもアントニーナも「自分自身になりたくてもなれない人」。社会のルールに縛られ、嘘の中でしか生きられない。そういう人の人生を描きたかったのです。
いまもロシアの人々は真実を知ろうとしていません。私は2022年に亡命しましたが、ロシアでは24時間、テレビもラジオもプロパガンダしか流さないひどい状況です。でも94年のルワンダの大虐殺もその後、裁かれました。私はロシアもいずれ必ず裁かれるときがくると思います。
(取材/文・中村千晶)
※AERA 2024年9月16日号