何ともパワフルな本だ。松田修は、芝居や遊郭といった「悪場所」に渦巻く庶民の欲望を通して、近世文化の躍動を捉えた異色の国文学者だった。こんな驚異の革命的クール・ジャパン論が、40年以上前に書かれていたことに、まず驚く。
 江戸後期、窮屈な武家支配の管理システムからはみ出した人々のエネルギーは、しかし革命には結びつかなかった。江戸時代を終わらせたのは黒船来航という外圧であり、徳川幕府に対抗する薩長などの雄藩と朝廷の結びつきだった。
 実際に権力を奪取すると、今度は新政府が新たな管理システムを構築し、庶民を支配することになる。その締め付けは、ある意味で江戸時代よりも厳しかった。庶民すら徴兵され、国家との関係を強いられたのだから。
 社会への不満や違和感は多くの人々に生活実感として自覚されるだろう。でも大抵は「仕方ない」「何も出来ない」とあきらめてしまう。実際、ひとりでは「何も出来ない」のかもしれない。だが、ただ堪えて従うには「自分」でありすぎる男たちもいた。
 刑罰としての入墨ではなく、自らの意思による刺青に、著者は反社会性、体制逸脱、異端者の美意識を見いだす。著者は、そうした過激なアウトローを称賛してやまない。その思い入れの強さは、とうてい学者の態度ではなく、そこに松田氏の魅力と危うさがある。
 また、刺青という自傷行為の痛みの先に、蜂起のエネルギーを夢見た先駆者として、作家・田中英光も取り上げる。田中作品に、共産党の党内秩序からもはみ出してしまう無頼者たちの永久革命願望をみるのだ。
 その一方で、孤独な男たちの「少年のような少女」あるいは「少女のような少年」による救済願望も読み取る。考えてみると、これは今時のBL趣味にも通じる感覚だ。かつての革命論を現代感覚で読むとどうなるか。その不思議な融合の成果は、読者それぞれに確かめてもらいたい。

週刊朝日 2016年4月1日号