しかし、人間逃げ道があればどうしてもそちらへ心が向くものです。包囲が解かれたことで、明智軍は最後の抵抗の意志が削がれ、わらわらと坂本城方面へ遁走し始め、あっという間に軍は消滅してしまいました。これぞ、孫子のいう「戦わずして勝つ」です。山崎合戦を制した秀吉は、一気に天下人への階段を駆け上ります。

●「戦術」ではなく「外交」で勝つ!

「お館様(信長)の仇討ち」に成功した秀吉は、織田家重鎮の中でも一気に発言権を増し、織田家跡継ぎを話し合う清洲会議でも、秀吉の推す三法師(信長の嫡孫)に家督を継がせることに成功しました。

 これまで織田家家老筆頭だった柴田勝家は、農民あがりの秀吉の後塵を拝することを潔しとせず、翌年、賤ヶ岳で秀吉に挑みましたが、敗れて自刃。こうして、秀吉の天下が揺るぎないものとなっていくと、これを快く思っていなかった2人の人物が手を結びます。

 信長の次男であるにもかかわらず、農民あがりの秀吉に家臣扱いされ、本能寺後の居城安土城からも追い出されていた織田信雄(のぶかつ)と、やはり農民あがりの秀吉の軍門に下ることを潔しとしなかった徳川家康

 彼らが手を組み、秀吉に挑んできました。決着を付けんと、秀吉が繰り出した兵は10万、対する徳川軍1万6000が犬山城と小牧城に陣取って睨み合います。

 これが小牧・長久手の戦いです。さすがに古狸家康、賤ヶ岳のときとは違い、戦いは一進一退の攻防が続き、膠着化。その間、秀吉側は4人もの将を討ち取られ、あまり好ましい戦況とは言えませんでしたが、やはり兵力・財力ともに徳川を圧倒していましたから、たとえ緒戦に敗れたにせよ、徹底的に戦えば秀吉は勝てたでしょう。

 しかし、戦が長引けば長引くほど、大軍を擁しているだけに兵站は悲鳴を上げ、他の大名の動向も怪しくなり、たとえ勝ったにしても秀吉の傷も深いものになります。やはりここは、秀吉〝伝家の宝刀?、「欠囲の陣」。

 敵に逃げ道を作ってやることで、その結束を弱める。ただし、今回は「戦術」ではなく「外交」で。秀吉は信雄に接近し、「伊賀・伊勢の領国の半分を安堵」することを条件に講和を持ちかけます。実は秀吉、尾張でこそ家康に後れをとったものの、伊賀・伊勢(信雄の領国)では快進撃を続け、次々と城を陥としていました。

 すでに信雄の心は折れかけていましたが、それでも頑として降伏しなかったのは、ここで降伏してしまえばすべての所領を没収されてしまうと思ったが故。追い詰められていた信雄は、所領安堵を願って必死に家康にしがみついているだけの状態だったのです。

 そこに秀吉が現れて「伊賀・伊勢の半分を安堵する」というのです。こんなにおいしい条件はありません。信雄は家康に何の相談もなくこの条件に飛びつきます。こうして、空けられた「穴」から早々に逃げ出した信雄。こうなれば、大義名分を失った家康も撤兵せざるを得ません。やはり、家康より秀吉のほうが一枚上手だったというわけです。

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