荘襄王三(前二四七)年に、上党を攻撃して占領郡の泰原郡を置いた同一記事を、秦本紀では王齕、六国年表では王齮と記している。王齕、王齮は同一人物と見られている。文字の旁(つくり)の乞と奇は漢音ではともにキであり、齕と齮は上古音では同音異字であったのだろう。

 王齮は始皇三年に戦死した。この時、蒙驁(もうごう)が韓、魏を攻撃しており、韓の一三城を獲得するほどの大きな戦役であり、王齮もこの戦いのなかで亡くなったのであろう。『史記』初出の昭王四七年から戦死した始皇三年まで一六年間、秦に尽くした武将であった。若き秦王嬴政を支えた武将が、蒙驁、王齮、麃公(ひょうこう)であった。嬴政はまだ一三から一五歳で、好戦的な昭王時代の経験を、将軍から少年王に伝えたのであろう。

龐煖(ほうけん) │合従軍を率いた武将

 戦国時代において、龐(ほう)氏には魏の龐涓(ほうけん)と趙の龐煖(ほうけん)がいて、いずれも武将として名高い。

龐涓は秦でいえば孝公の時代、龐煖は秦王嬴政の若き時代の将軍で、時代は重なっていない。龐氏はそもそも周の文王の子の畢公高(ひっこうこう)の子孫で、龐の地に封ぜられた者に由来する。『史記』に見える龐氏はわずかこの二人だけであるので、血縁的な関係があるのかもしれない。

 趙の将軍の龐煖は、『史記』趙世家では、秦王嬴政の六(前二四一)年、趙・楚・魏・燕の精鋭を率いて秦の蕞(さい)を攻撃するという重要な働きをした。蕞は秦の都の咸陽にも近く、そこまで侵略しながら失敗したという。一方『史記』楚世家によれば、このときの合従の長は楚の考烈王にあり、春申君黄歇(こうけつ)も派遣され、函谷関まで攻めたが秦の反撃の前に敗北したという。

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龐煖の敗因は何だったのか