秦始皇本紀によると、韓・魏・趙・衛・楚の五国軍は寿陵の地を取ったが、秦軍が出兵して撤退したという。龐煖の精鋭軍と楚の春申君の合従軍の連携がうまくいかなかったのかもしれない。『龐煖』二編(『漢書』芸文志)は残されてはいないが、龐煖の兵法書である。

 龐煖が合従軍の精鋭を率いることができたのは、それ以前の戦績が評価されたからであろう。趙を出た名将の廉頗(れんぱ)に代わって将軍となり、燕軍の侵入を防いだ功績がある。

このとき燕将の劇辛(げきしん)は、趙にいたときに旧知であった龐煖は戦いやすいと油断し、秦軍に苦しむ趙の隙を攻めた。龐煖は燕軍二万を迎え撃ち、劇辛を殺した。趙人劇辛を相手にした戦い方を知っていたのであろう。

朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』(鶴間和幸 著)では、羌瘣(きょうかい)、楊端和(ようたんわ)、桓齮、李牧ら名将軍たちの、史実における活躍を詳述している)

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