江戸中期の1753年、水害が多発していた木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)流域の河川工事「宝暦治水」を命じられた薩摩藩。責任者の家老、平田靱負を中心とした薩摩藩士らが難工事に駆り出される。鹿児島からは遠いが、因縁深い「関ケ原」にはほど近い。流域の支配権は複雑に分かれ、領民たちも一筋縄ではゆかない。総工費は40万両にのぼり、平田はまず資金集めのために大坂商人に頭を下げて回る。さらには「水を掻かねば、みな海に沈む」土地に入り、したたかな郡代や交代寄合(旗本)、領民たちをなだめ、ときには威嚇する。1年半で藩士約千人のうち三十数人が病死、約50人が次々に切腹した。
日本史に異彩を放ち続けた薩摩藩でもとくに語り継がれた事件で、工事はようやく完成する。領民たちには深く感謝されるものの、平田は静かに運命の決断を選ぶ。「こんな大きな体験ですから、その精神は幕末維新の薩摩の侍たちに引き継がれたと思うんです」と著者はいう。その忠誠心の有り様は宗教性さえ帯び、薩摩のプライドの凄みを伝えている。
※週刊朝日 2016年1月29日号