日露戦争で連合艦隊の作戦参謀を務めた秋山真之。日本海軍の兵学の基礎を確立した。国立国会図書館所蔵
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 日露戦争・日本海海戦は世界の海戦史上でも例のない完勝だった。それは徹底した砲撃訓練戦術の研究、火薬や信管の開発など入念で周到な準備に支えられた連合艦隊がもたらしたものだ。世界が驚嘆した日本海海戦における日本の秘策を4回にわたって解説する。2回目は「東郷ターン」。(『歴史道』Vol.33「日清・日露戦争史」より)

【図解】東郷平八郎は焦燥、連合艦隊が敷いた警戒線

東郷ターン

 バルチック艦隊がリバウを出航以来、日本の大本営は各国駐在の公使館や領事館、それに同盟国イギリスからの情報によって敵艦隊の動向をかなり正確につかんでいた。仏印沖で待機するバルチック艦隊が、ネボガトフ少将指揮の第三艦隊と合流し、明治三十八年(1905)五月十四日に最終目的地のウラジオストクに出発したのもつかんでいた。問題は敵艦隊がどのコースを通るかだった。

 ウラジオストクに向かうには3つのコースがある。1つは対馬海峡を通るもので、2つ目は太平洋から津軽海峡を通るコース、そして3つ目は太平洋を迂回して宗谷海峡に入るコースである(58ページ図)。ロジェストヴェンスキー中将は、日本の艦隊主力が待ち伏せている可能性の最も高い対馬海峡を選んでいた。理由は、遠路の宗谷海峡コースでは燃料に不安があり、津軽海峡には日本が機雷を敷設していると思ったからという。

 東郷は対馬ルートと予想していたものの敵将の考えを読み切れない。不安に駆られ、五月二十四日午後2時15分、東郷は大本営に「連合艦隊の移動」を打電した。

 伊東祐亨軍令部長と大本営の参謀たちは情報分析を重ね、翌二十五日、「敵艦隊は十中八九まで朝鮮海峡(対馬海峡西水道)を通過すると思われる、艦隊主力の移動は慎重を期されたい」と返電した。

 そして大本営に「敵艦隊は対馬海峡を突破する」と確信を与えたのは、二十六日の午前0時5分に上海から飛び込んできた情報だった。バルチック艦隊の6隻の運送船が二十五日の夕方、上海の呉淞に入港したというのである。運送船を帰したということは、以後、艦隊は給炭ができないので、敵は最短の日本海を抜ける対馬ルートを行くことを物語っている。

連合艦隊が敷いた警戒線
ルソン島沖まで敵艦隊の航路を捕捉していた大本営だったが、バシー海峡通過後から不明となっていた。対馬海峡を中心に第6線まで警戒線を敷いていた東郷の焦燥は激しかった。
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