ともあれ陸奥は、我々も妥協すべきだと伊藤首相らに訴え、李こう章が求める休戦に同意させた。こうして四月一日、日本側は詳細な講和案を清側に伝えた。

 五日、この案に対し李は、条件の緩和を求める覚書を提出し、以後、数回にわたって談判が行われた。そして四月十七日、日清講和(下関)条約が調印されたのである。翌十八日、伊藤と陸奥は下関から軍艦八重山で広島の大本営に戻った。その内容が明らかにされるや、国民はその成果に大いに満足した。日本は清から「朝鮮が独立国家である」という言質をとり、多額の賠償金と台湾、澎湖諸島、遼東半島などの領土を獲得したからである。

 ただ、遼東半島についてはロシアがフランスとドイツを誘って日本に返還を求めた(三国干渉)ため、日本政府は仕方なくその要求に応じることになった。

 なお、賠償金の額は2億両、加えて遼東半島を返還した代償として3000万両、合わせて2億3000万両を手にした。賠償金は8回の分割払いで、日本政府は明治三十一年までにロンドンでポンドにして全額を受け取っている。これは、日本円にすると3億6450万余円にあたり、日清戦争で費やした戦費2億47万円からしても、十分におつりが出る金額で、当時の国家予算の4年分を超える大金だった。

 兵士の動員数は約17万4000人、うち戦病死者は約1万3000人(うち病死は約1万1800人。ほとんどは感染症によるもの)にのぼったが、賠償金は兵士への補償や慰労金として使われたわけではない。

 具体的には臨時軍事費特別会計へ7900万円、軍備拡張費に2億2600万円、皇室費用へ2000万円、教育基金に1000万円、災害準備金に1000万円、その他に1500万円である。つまり、賠償金の85%近くを軍事関係の費用に投入しているのだ。

 日清戦争は終わったが、日本の安寧のためにはロシアとの確執に決着をつけなくてはならない。場合によっては戦争もあり得る。このため政府は、10カ年計画で軍拡を行うことに決めたのだ。ただ、その金額は賠償金だけでは収まらず、軍事公債や増税によって進めていくことになったのである。

下関講和条約の主な内容

1. 清は宗主権を放棄し、朝鮮の自主独立を承認する。

2. 清は占領地の城塁、兵器製造所及び官有物、遼東半島、

台湾、澎湖諸島などを日本へ割譲する。

3. 清は2億両の賠償金を日本に支払う。

4. 割与地の住人は居住地の選択が可能で、条約批准後2年が経過すれば割与地の住人を日本国民にすることができる。

5. 清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放し、

各開市場や開港で自由に工場経営をすることができる。

また、日本へ最恵国待遇を認める。

6. 3カ月以内に清国領土から日本軍を引き揚げる。

7. 日本人俘虜に対し、虐待や処刑をしてはいけない。

さらに、日本軍に協力した清国人も処刑をしてはいけない。

賠償金の使途
ロシアとの戦争も視野に入れ、約63%が「軍備拡張費」、約22%が「臨時軍事費」に充てられた。