明治維新から30年足らずだった日本は、当時、侮れない存在として「眠れる獅子」と称されていた清とどのように戦ったのか。誰も予想しえなかった日本勝利で終わった、日清戦争を、テレビでもおなじみの河合敦さんが8回にわたって解説する。最終回の第8回は「下関講和条約1895年4月17日」。
【写真】日清戦争の講和に応じて2億3000万両の賠償金と台湾などを得た伊藤博文首相と陸奥宗光外相
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下関講和条約1895年4月17日
明治二十八年(1895)三月十五日、伊藤博文首相と陸奥宗光外相が全権委員となり、山口県下関の春帆楼において、二十日から清の全権・李こう章との間で講和交渉が開始された。
会談1回目は、清側から「休戦したうえで講和の交渉をしたい」という申し入れがあり、日本側が休戦の条件を提示することで終了した。李は、黄色人種が団結して白人の侵略に対抗すべきだと述べ、この戦争は黄色人種が西欧流の陸海軍組織を用いて見事な戦いをみせたものと断じ、清は夢から覚めることができたと感謝した。そして、まずは休戦したうえで講和交渉に入ることを再提案。日清同盟の締結を説いた。
しかし翌日、日本側は休戦せずに交渉に入ることを希望。「もし休戦したいのなら、天津や山海関などを日本軍の占領下におき、同地域の清軍は武器・弾薬等を引き渡し、休戦中の軍費もすべて清が負担すべきだ」と伝えた。大勝しているのは日本であり、講和交渉を有利に進めるうえでも、国民を納得させるうえでも、休戦は得策ではなかった。李は「その条件は余りに苛酷だ」と反発したものの、結局、休戦を断念して交渉に入ることを伝えた。
ところが、その直後の二十四日、李が自由党の小山六之助に短銃で狙撃され、重傷を負ったのだ。警備を担う日本側の大失態であり、仰天した伊藤と陸奥は旅館で伏せている李を見舞った。広島の大本営で事態を知った明治天皇と政府高官も驚き、すぐに医師を派遣。翌日、天皇は詔勅を発して遺憾の意と犯人への怒りをあらわにした。国民からも慰問の品が殺到するようになった。国内世論の流れが大きく変わったのである。
国民の豹変ぶりに陸奥外相もあきれ、次のように記している。「(これまで)李の身分に対しても殆ど聞くに堪えざる悪口雑言を放ちおりたる者が、今日俄然として李に対しその遭難を痛惜する」「甚だしきは李が既往の功業を列挙して、東方将来の安危は李が死生に係るものの如く言う」「昨日まで戦勝熱に浮かされ、狂喜を極めたる社会はあたかも居喪の悲境に陥りたるが如く、人情の反覆、波瀾に似たる」(『蹇蹇録』)