さらにこれに絡めて、日本人選手どうしの因縁や遺恨の小さな状況下での物語を起動させ、師弟対決の物語なども加える。前大会RIZIN.46の物語は“世代交代”だった。高齢者である僕は当然41歳の挑戦者金原正徳選手を応援した(この物語に乗ったわけである)が、若い鈴木千裕選手の稲妻のような猛ラッシュに沈み、激しく落胆する結果となった。

 ただ、このように様々な物語を意識させるプロモーションの手法は、日本独自のものらしい。アメリカで活躍する堀口恭司選手は、アメリカでは単純にどちらが強いかだけにフォーカスするという内容の発言をしていた。これは興味深い。なぜ日本のMMAはかくも過剰な物語を生産するのだろうか。

「最後の1分1秒まで一本とKOを狙ってくれ」

 僕はそれはプロレスの残照だと思う。真剣勝負の座をMMAに明け渡したプロレスの残照がMMAのマットを淡く照らしているのだ、と。

 日本の戦後史を映像でふり返るというような特集で、必ずといっていいほど使われる記録映像がある。街頭テレビに群がってプロレス中継を見る人々の姿が映り、そのテレビの画面はプロレスの試合を映し出している。これらのショットに被せて、「力道山が外国人レスラー(西洋人)を日本の技である空手チョップで倒す姿は、敗戦で自信を失いかけていた日本人を勇気づけた」というような解説が加えられる。これは物語である。しかも、力道山が朝鮮出身であったことを考えると、まさしく物語(フィクション)だ。そして力道山の“日本人VS海外”の物語は、現在進行中の“黒船襲来”とほぼ同型である。

 それだけではない、遺恨試合、師弟対決、リング上でマイクを使っての煽り合いなど、日本のMMAにはプロレスから引き継いだものが多い。それは、初期のMMAに参入した選手たちが、プロレスラーだったことが大きく影響していることはまちがいないだろう。

 MMAのマットを照らしている。その光は剥き出しの現実を暴き立てるものではない。プロレス的な虚実を織り交ぜた光が闘いの舞台を演出しているのである。われわれは勝ち負けだけの物語では満足できないのである。その思いはRIZIN・46のある凡戦に苦言を呈した、「勝った負けたじゃなくて、本当に最後の1分1秒まで一本とKOを狙ってくれ。僕らは勝ち負けにこだわらないプロモーションだ」という榊原信行CEOの言葉にも表れている。さて、この原稿を書いている翌日には、RIZIN.47が開催される。次はどのような物語が紡がれるのか、いまから楽しみである。

 
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