唄方プロジェクトと並行して、やはり宮沢は「くるちの杜(もり)100年プロジェクト」を立ち上げている。「島唄」がヒットしたため、三線が広く売れるようになり、それまで棹には沖縄産の黒木(くるち=琉球黒檀(こくたん))を使っていたのが、輸入に頼らざるを得なくなったと職人から聞かされたのだ。そこで読谷村と協力して植樹をスタートした。

「ぼくが音楽家としてできることは小さいし、あちこち手をだせない。くるちを植樹すれば100年後や200年後にこのくるちを使って三線をつくり、沖縄民謡の歌手を目指す人がいるかもしれない。ぼくは沖縄に行く前に民謡が好きになったから、民謡がずっと続いてほしい」

沖縄の犠牲者の上に我々の日常生活がある

 十数年にわたって宮沢と仕事をし、宮沢が沖縄にゆかりのある人と対談した『沖縄のことを聞かせてください』を編集した安東嵩史(42)は、宮沢のことを「生真面目な人」と話す。

「この本を出した理由は、ミヤさんが沖縄をつまみ食いしてこなかった30年をまとめたかったから。沖縄の関係者で、あえて初対面の人を選び対談してもらうことでミヤさんを相対化したかった。ミヤさんはよく、『ウチナーンチュになりすますことはよくない』と言うんです」

 宮沢は「沖縄に借りがある」という言い方もする。それは、故郷である山梨県にもかつて米軍の海兵隊が駐屯していたが、「富士に銃口を向けるのか」というスローガンのもと、基地の撤退運動があり、沖縄に移駐したことによる。

「沖縄の人の20万の犠牲者の上に、いま我々がおいしいものを食べたりできる。それは借りがある、ということでしょう」

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