1992年、悩んだ末に発売に踏み切った。最初は、アルバム「思春期」に収録された一曲にすぎなかったが、沖縄で「島唄」がシングルカットされ話題になった。その後、沖縄限定でウチナーグチ・ヴァージョンをリリースすると、50万枚と大ヒット。沖縄から火がつき、「島唄」のオリジナル・ヴァージョンは全国で150万枚の売り上げを記録する。

 石垣島出身の民謡歌手・大工哲弘(75)は当初から「島唄」に共鳴した一人で、「ぼくも八重山の民謡とジャズをミックスしたアルバムを出して一部から批判された経験があったし、宮沢君の唄はメロディーがよかった。若い人たちからあの歌を演奏したいと言われて、やっぱりと思いました」と振り返る。

 しかし、やはり一部ではあるが、「ヤマトの人間が軽々しく歌うな」とか「あんな歌なら自分でもできる」「島唄なんて軽々しく言ってくれるな」という批判が宮沢の耳に入ってきた。地元の新聞にも批判する投稿が載った。

次世代に沖縄民謡を伝える「唄方プロジェクト」発足

 宮沢にとってキツかったのは〈くり返す悲しみは 島渡る波のよう〉という歌詞についての思いが伝わらないことだった。戦前、戦中、戦後にかけて沖縄から中国の大国主義やヤマトの「帝国主義」が、大切なものを奪ってきたことを「裏」で意味を込めたものだった。けれども、宮沢こそ沖縄ブームに乗っかってひと儲(もう)けしようと企(たくら)んでいる「帝国主義」じゃないか、沖縄から大切なものを搾取していこうとしているじゃないか、という批判が起きたのだ。

 称賛のほうが圧倒的多数ではあるにせよ、ネガティヴな声のはざまで宮沢は葛藤し、沖縄をそれまでのように自由に旅することができなくなってしまう。

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