3位 上杉景勝 / 家康の呼び出しに応じず、矜持を示す

  第3位には、上杉謙信の甥にして養子の上杉景勝が選ばれた。謙信死後の内乱を制して後継者となり、直江兼続と二人三脚の歩みを取った。

 織田信長とは敵対したが、豊臣秀吉には臣従。越後から会津へ国替えこそされたが、120万石の大大名となる。

 小早川隆景亡き後、欠員を補うべく五大老の一人に。家康以外の五大老の帰国が許されるなか、景勝も会津に戻り、いまだ中途にあった若松城の整備などを本格化させた。

 国替えは居城の移動も伴うため、景勝が新たな居城と城下町の整備に努めたのは当然のこと。ところが、これを許可なき城の修築を禁じた秀吉の遺言に背く行為として、家康に密告する者がいた。

 秀吉の生前に着手していたのだから対象外のはず。景勝はそう考えていたから、上洛と弁明を何度要求されても、受け入れる気はなかった。

 かくして慶長五年(1600)六月十六日、家康は上杉討伐のため大坂を出陣。石田三成が挙兵したのは七月十一日のことである。このため、三成と直江兼続の間には家康を東西から挟撃する密約があったともされてきたが、物証もなく、現在では否定されている。

 ただし、佐竹氏と同盟を結び、最上義光と伊達政宗を屈服させ、東北から関東にまたがる覇権を意図していたことは疑いなく、すべては直江兼続の主導で進められた。

 結局、景勝は軍事行動を起こしながら、さしたる戦果を挙げられなかった。戦後は家康の裁きを素直に受け入れるしかなく、所領の大半を没収され、出羽国米沢30万石へと減封された。

 その後、景勝が家康に叛意を示すことはなく、大坂冬の陣・夏の陣にも出陣。忠義を尽くしたことで、信頼を獲得した。

※外様大名の定義として、ここでは関ヶ原の戦い前後から徳川に臣従した諸侯とする。

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』から抜粋

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