大西みつぐさんは半世紀にわたり東京の下町や近郊の町に暮らす人々や風景を写してきた。そんな大西さんがずっと気になってきたのが東京ディズニーランドだという。
「1980年代、東京の一番端っこにあるぼくの自宅の周辺はディズニーランドと合わせて、一大エンターテインメントの町になる、という雰囲気があった。これまでの下町とは全然違うすごいことになる、これを撮らなければ、と思った」と、大西さんはバブル景気に湧いた当時を振り返る。
永井荷風が歩いた荒川放水路
1952(昭和27)年、大西さんは江戸の面影が残る江東区・深川で生まれた。すぐ南には江戸時代からの水運の中心、小名木川が流れていた。
西は隅田川、東は荒川に挟まれた江東区には「川」と呼ばれる運河が張り巡らされ、さまざまな生活物資が船で運ばれ、昭和30年代まで人々の生活を支えていた。
1970年代、大西さんが写真家としてスタートを切ったころ、地元の深川周辺や浅草、上野を撮影することが多かった。ところが、84年から撮影エリアをガラリと変えて、荒川周辺を撮り始めた。
その作品「河口の町・江東ゼロメートル地帯84」で大西さんは太陽賞(主催・平凡社)を受賞するのだが、荒川を撮影した理由を尋ねると、「たまたまですよ」と、返ってきた。
「深川から江東区の東、砂町に引っ越して、そこで所帯を持った。自転車に乗ってプラプラ散歩するように近所を撮影した」
華やかな浅草とは対照的に、荒川周辺には「うら寂しい、場末みたいなイメージがあった」。
古くから多くの人に親しまれてきた隅田川とは違い、荒川下流域は大正から昭和にかけて作られた人工河川で、「荒川放水路」と呼ばれた。
「昭和初期、作家の永井荷風はこの放水路周辺をよく散歩したんです。河川敷にはヨシが生い茂り、遠くに工場の煙突が見えた。そんな寂莫(せきばく)とした風景に逆に心を慰められたことが『断腸亭日乗』に記されている。そんな雰囲気に引かれたんです」