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 2024年3月17日放送の大河ドラマ光る君へ」で、藤原道長はまひろ(紫式部)に「妾になってくれ」と持ちかけた。3月24日放送の第12話「思いの果て」では、まひろに妾になることを拒まれた道長の縁談を軸に、物語が展開される。

 藤原道長は、宇多天皇のひ孫で現職の左大臣の娘の源倫子を北の方(正室)に迎え、やがて摂関政治の全盛期を築くのだが、自身が関白の座に着いたことはない。なぜなのか。道長の生涯や人となりについては、2月4日に公開した記事【大河ドラマ「光る君へ」本日第5話】権力の階段を駆け上った藤原道長が苦しんだ「持病」とは?に詳しい。

 今回は、道長流の権力掌握術を、『出来事と文化が同時にわかる 平安時代』(監修 伊藤賀一/編集 かみゆ歴史編集部)から学びたい。

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 1017(寛仁1)年、藤原道長は摂政を嫡男・頼通に譲った。摂関政治の全盛期を築いた道長だが、実は摂政を務めたのは孫にあたる後一条天皇の即位後1年間だけ。関白には一度も就任していない。代わりに、道長は一条・三条両天皇の20年間、「内覧」「左大臣」として政務をとった。

「内覧」は、天皇に奏上する文書や天皇が太政官に下す文書に、事前に目を通す役職で、本来は摂関に属する権限であった。ただ、摂関は天皇を補佐するため、陣定(じんのさだめ)などの公卿会議に出ることができない。そのため道長は、内覧となって摂関と同等の権力を保ちながら、筆頭公卿である左大臣として会議を直接掌握しようとしたのである。加えて道長は、太政官の決済を経ず事務方から直接、奏上を受け決済する奏事(そうじ)というシステムをつくり、摂関・内覧の権力を強化したといわれている。

 摂政辞任から2年後、かねて病に悩まされていた道長は出家した。しかしその後も、太閤(たいこう/元摂関)・大殿(おおとの)として政治の実権を握り、若き摂政となった嫡男・頼通を通して国政に影響力を及ぼし続けた。こうした政権掌握の手法は、上皇が政治を主導する院政(いんせい)の先がけになったともいわれている。

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道長の日記は誤記や脱字が多かった