はにかむポルトガル人
今村:「バスク人」と呼ばれる人たちは当時、人口が減っていた。司馬さんは、同じ「しゅうえん」でも、「終焉」というか、最盛期よりも規模が小さくなったものに対する興味も深いという印象は受けます。
古屋:ポルトガルのサグレス岬が、「南蛮のみち」の終着地ですよね。
岸本:ポルトガルの人って、はにかみとか恥じらいとか、おとなしさがあるんです。それになんていうか、非生産的なんですね。出窓に花を飾ってかわいくしているので、「ここにお金をかけるより、雨どいを先に修理したら?」と思ったりしました。「どうしてこういう人たちが世界の海へ出ていこうと思ったんだろう」と、そのイメージのギャップに、旅をするなかで私は困惑していました。でも端っこの岬に立って海面をずっと見ていると、潮にはまるで意志があるように一方向にひた走って流れていくんです。当時のヨーロッパ人は、海は端っこで滝のように落ちていると考えていた。でも、「滝の落ちるだけのところに、こんなに潮流が意志を持って進んで行くわけがない。違うんじゃないか」と感覚的に思っても不思議はない。
今村:読んで思うのは、司馬さんはこちら側から見ているその地域と、その地域から見ている世界というのを、両側書かれているなと。司馬さんが、たとえばバスクに見ている憧憬(しょうけい)というのは、逆に「バスク人」が日本に憧憬を持っているとして描かれているはずですね。
古屋:司馬さんはこのバスク人のことをきっかけに、文明と文化について考えを深めていかれた。
磯田:よく、学生に言います。「お城の上に鯱(しゃちほこ)を載っけるのが文化。消火器をおくのが文明。鯱は水を呼ぶ。天守を焼かぬため置いてある。だけど、鯱で火事が消えるだろうか?」と。で、鯱じゃなくて消火器を置いておくのが文明。でも天守の上に2個の消火器が置かれていて、観光客が来るかといえば、こない。現在、人類は人工知能という文明の利器に手をだそうとしています。しかし人間は文化なしでは心の安定が保てない。『街道をゆく』が津々浦々から拾おうとしたのは、そこの人だけが育む意味の連関、象徴や文化です。よそと違うものを愉快に拾っていった。だからでしょう。司馬さんは「私のもので最後まで残るのは『街道をゆく』だろう」と言っています。僕も賛成です。
価値を生むものは何か
岸本:『街道をゆく』が始まったタイミングを思います。1971年、昭和でいうと46年。各地に独自の文化があったのが、急速に失われようとしていた。モノによってはもう失われていたかもしれない。最後のチャンスだったのかなと思います。私は俳句が趣味でよく歳時記を調べます。季語の説明を読み、習わしについて調べていくと、昭和30年代くらいを境に途絶えていくものって多いんですね。