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 朝ドラブギウギ」がいよいよ佳境だ。連載「私とブギウギ」から、思い出のハイライトをプレイバックする(2024年1月15日に配信した記事の再掲です。年齢、肩書は当時)。

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 終戦を鹿児島で迎えた茨田りつ子(菊地凛子)が、「日本、負けましたよ」と知らせに来た女中に寝転がったままこう言った。

「そう、やっと終わったのね。随分、かがったわね」。

「かかったわね」でなく、「かがったわね」、かすかなお国訛りだった。戦争の虚しさが、クールビューティーの茨田をお国言葉にさせた。胸に刺さった。

 日本人が玉音放送の存在を忘れないのは、朝ドラがあるから。半分以上本気でそう思っている。ヒロインが聞くシーンが何度となく描かれる。

「ブギウギ」も例外でなく、スズ子は富山県で聞いていた。前日に、戦死した六郎(黒崎煌代)の「大空の弟」を歌っていた。そして茨田は聞くのでなく、知らされていた。「戦争」と闘ってきた茨田には、ふさわしい8月15日だと思った。

 1940年、茨田は日帝劇場の前で大日本国防婦人会の女性たちに囲まれていた。

「そんな姿で、前線の皇軍将兵のみなさんに顔向けできますか?」。

 大きなつばのエンジの帽子、エメラルドブルーのブラウス、黒のロングスカート&ハイヒール。「これは私の戦闘服です」と茨田。「えらそうに。何と闘っているというの?」という再質問には、「どいてくださる」とだけ言って歩き出した。

  同じ日、ところかわって丸の内署。憲兵から舞台衣装と化粧を責められていた。

「欧米退廃文化」「贅沢」。そんな言葉にもひるまず、「私はお客さまに夢を見せる歌手よ」「表舞台に立つものにとって、これは当たり前の格好です」と堂々たるものだった。

 翌41年、再び丸の内署に茨田がいた。戦局が悪化しているから、憲兵はますます強硬だ。茨田は、衣装も化粧も、気に入らないなら始末書でもなんでも書くと言った。憲兵は「始末書で済むと思うな」と言い、楽譜を手に脅しをかけた。「これは没収する。これからは愛国精神にのっとった歌を歌え、そうでなければこの楽譜はすべて焼き捨てる」。

 ここで、茨田の津軽弁が出た。「なんでそんなことされねばまい。命より大事な楽譜だ、すぐ返せ」。これが初めてのお国言葉だった。

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舞台を降りると、声をあげて泣いた