「長篠合戦図屏風(模本)」(東京国立博物館蔵)
「長篠合戦図屏風(模本)」(東京国立博物館蔵)

「戦国最強」武田騎馬隊が敗北――長篠の戦いは、日本で初めて鉄砲が大量に使われた、「ゲームチェンジ」の一戦だったと言われている。その仕掛け人・織田信長の思惑は? X(旧Twitter)で歴史上の偉人による架空のタイムラインなどを投稿し大反響を呼んだネット投稿者・スエヒロさん。NHKのSF時代劇『天下人のスマホ』等にも制作協力として携わった彼の新刊『戦国時代のタイムライン』(監修:本郷和人東京大教授)より、信長らのやり取りの一部を抜粋・編集してお届けする。

【画像】織田信長と武田勝頼のタイムラインでのやり取りはこちら

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織田信長:1575年、三河の設楽原において織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼が戦った合戦が「長篠の戦い」だな。

武田勝頼:父・信玄の跡を継いだ私・武田勝頼。家康が占領する三河に侵攻しておりました。その中で、長篠の西に位置する設楽原で織田・徳川連合軍と激突することに。

織田信長:我々は鉄砲を主力として用いることを計画しており、1000丁の鉄砲を準備しておった。馬防柵と呼ばれる馬での通行を妨げる防御設備も設置して、武田軍を待ち構えたのだな。

織田信長と武田勝頼のプロフィール
織田信長と武田勝頼のプロフィール

武田勝頼:我々は自慢の騎馬隊を中心に攻撃を仕掛けたのですが、馬の機動力を馬防柵に阻まれ、さらには鉄砲隊からの銃撃を受けて、多くの武将を失うことになりました…。馬防柵と鉄砲のコンボがヤバいのですよね…。

織田信長:午前8時ごろから始まった合戦は織田・徳川優勢で進み、午後2時ごろになると武田軍はついに敗走。勝頼のやつもそそくさと信濃へ逃げよった。ワシの完全勝利というわけだ。ガハハ。

 有力大名だった武田氏が敗れるという、戦国時代の節目のひとつとなった長篠の戦い。戦いにおいても騎馬中心の「個人戦」から、足軽・鉄砲隊を中心とした「集団戦」への変化が起きたエポックメイキングな合戦とも言われておるのだな。織田軍は3000丁の鉄砲を集めたと言われておるが、実際には1/3の1000丁程度だったとみられている。まあそれでも凄い数だがな。

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「三段撃ち」も誇張だった?!