『百人一首』に載せる「めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲かくれにし 夜半の月かな」についても、相手を恋愛関係にあった男性と想定する理解もあるようだが、少女時代以来の親友と覚しき女性に対しての歌とする考え方も強い。式部の二十代前半の宮中は、一条天皇が元服、定子が入内、その定子のもとに清少納言が出仕している時期だった。
式部二十五歳のおり、一歳年長の姉が死去した。死去といえば『蜻蛉日記』の作者右大将道綱の母も同じころ亡くなっている。式部にとっては母方の親族に当たり、兼家との愛の行方を叙述したこの作品は、多感な式部にも刺激を与えたはずだ。当該期、年号でいえば「正暦」から「長徳」にかけては、疫病が猖獗を極めた。「三道」の道隆・道兼以下の公卿たちまでもが相ついで死去し、不安も広がった。
そんななかで朗報がもたらされる。父為時の十年ぶりの任官だ。長徳二年(九九六)、越前守に任ぜられた。式部二十七歳(二十四歳とする説も)のおりだった。式部も父の赴任に合わせ北国に同道することになった。都では疫病の流行もあったためか、父為時は子女をともなって、同年の秋に都を発った。これに先立ち同年正月から四月にかけて政界を揺るがす事件が勃発した。