王朝文学は色恋沙汰を抜きにしては語れない。それはその担い手たる女房たちがその場に身を置くことでの経験が大きいからである。「恋は曲者」(謡曲『花月』)の語があるように、自身がその虜になることもあった。紫式部は、色恋に酩酊できないタイプで、その自覚が彼女を散文へと走らせた。しかし、同時に彼女はそれなりに愛欲の世界も心得ていたので“仮想現実”を伝えることもできた。関幸彦氏の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、紫式部自身の色恋について紹介する(「AERA dot.」2024年2月4日に配信された記事の再配信です)。
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権門の喧噪ーー二十代の式部
式部の青春時代は、「永祚」(九八九)・「正暦」(九九〇〜九九四)・「長徳」(九九五〜九九八)が該当する。もう一人の主役道長は、三十代初頭にさしかかり、政界にあって順風が吹きつつあった段階だ。いずれの年号も一条天皇のものだ。彼女が二十代の前半の時節、ある男性との恋愛関係が推測されるという。「おぼつかな それかあらぬか 明ぐれの 空おぼれする 朝顔の花」(私との関係を持ちながら、好きか嫌いかはっきりと明かさずに、翌朝に離れていったあなたの気持ちはどうなんでしょうか)(『紫式部集』)。多感な青春時代の一齣として、彼女にも春が訪れたようだ。だが、式部の結婚以前についての具体的な恋愛事情は、右に示した歌以外について定かではない。