ここ数十年の間に、科学技術の爆発的な進歩が個々人の生活に波及し、我々は豊かで便利な日常を享受するようになった。特にこの十年、スマホやSNSの日々の暮らしへの浸透ぶりには目ざましいものがある。
ところがそれに比例して、人の精神はうすっぺらい情報で占められるようになった。おまけに、科学崇拝が猖獗(しょうけつ)をきわめている。文科省など、自然科学にあらずんば学問にあらずと言いたげだ。国立大学の人文社会系の学問は整理縮小すべしとのお達しが出されたことは、記憶に新しい。
言うまでもなく科学一辺倒では抜け落ちてしまうものがある。我々の生きざまや人生のありよう、生の実感を本当にとらえることはできないと、心ある人々は本能的に、そして深刻に感じはじめている。
科学は客観的であろうとして、精神と物質(心と身体)を分裂させて思考する。それこそが科学の本質である。だから、科学が描き出すのは、人の心から切り離され、単純化された物質世界でしかない。進歩著しい脳科学でさえ、シナプスの電気信号と、心の主観的な「思い」を接合させることは未だにできていない。
我々の生きる現実は多層的であり、河合隼雄も述べているように、「『物語る』ことによってしか他人に伝えることができない」(『ファンタジーを読む』)。人間にとって〈物語〉がなくてならないのは、まさにこのためだ。〈物語〉こそが人間の存在を物心を含めた一つの全体としてとらえ、〈たましい〉の深層を明らかにしてくれるからである。
だから、近年めざましいブームとなっている世界文学人気はけっして偶然などではない。表層的な情報の氾濫、科学万能の風潮の中で、人間の魂が、心の充実と、より真実な〈現実〉の姿を切実に求めはじめている兆候なのだ。
世界の名作十八篇
『読み切り 世界文学』は、そんな現代に生きる人々を、豊かな物語の世界へとご案内しようと書いた。世界の歴史に燦たる名をとどめている物語作りの達人たちが、人類のために遺してくれた偉大な遺産の数々を、誰にでも分かる形でご紹介しようというのである。
この本では世界文学を代表する18の名作が取り上げられ、それぞれについてあらすじが紹介され、作者や作品についての解説が付されている。
サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のように落ちこぼれの若者の悩みを扱ったものから、ダンテの『神曲』のような死後の世界を描き切った壮大な物語までテーマはじつに多種多様である。例えば……、
・「ご機嫌なんてさ。まったくインチキくさい言葉じゃないか」
『ライ麦畑でつかまえて』の16歳の高校生ホールデンの言葉だ。共感する人もいるだろう。ショックを受ける人、反感しか覚えない人がいてもおかしくない。反応は人それぞれだが、社会や文明ばかりか、人間の言葉そのものが、なにか不自由なこしらえものに見えて不安になる瞬間が、たいていの人にはあるものだ。
・「それは太陽のせいだ」
『異邦人』のムルソーには社会的しきたりのすべてが胡散臭くてたまらない。母親の葬儀で悲しい顔もしなければ、好きな女がいても結婚を考えず、会社での出世にも関心がない。そして殺人の理由はと訊かれると、ただ「太陽が圧倒的だったから」というばかり。
・「おまちなさい、あなたにあげた燭台がある。もって行きなさい」
『レ・ミゼラブル』の司教は、銀の燭台を盗み、警官に引き立てられたジャン・ヴァルジャンにこう声をかけた。彼は純粋な善を目の前にし、魂を底の底から揺さぶられた……。
ホモ・ファブラ
人類は〈ホモ・サピエンス〉、すなわち「知恵のある人」と呼ばれる。これは常識だが、それに加えて〈ホモ・ファブラ〉とも呼ばれることがあるのはご存じだろうか?
〈ホモ・ファブラ〉というのは「物語る人」という意味である。人間がいかに〈物語〉と縁の深い存在であるかを、この言葉は気づかせてくれる。つまり、人間にとっては、生きるということと、〈物語〉を作ったり読んだりすることは同義なのである。
人の心は絶え間なく物語を紡ぎ続けている。そもそも〈物語〉なしでは自己について、世界について、そして人生について考えることも、理解することもできない。
『読み切り 世界文学』を読むことで、自己や社会のありかたについてもう一度考えてみようというきっかけとなってくれればいいな、と思う。