桂離宮なんか、そうたいしたところじゃない。やたらとほめたたえる人はいるが、どれも話がおおげさにすぎる。いいかげんにしてくれ、というような想いを、若いころ一冊の本にぶつけたことがある。『つくられた桂離宮神話』(1986年)が、それである。

 そのいっぽうで、私は美人の研究にものりだしていた。オスカー・プロモーションへ、取材のためにでむいたこともある。同プロがてがける国民的美少女コンテストの成り立ちを、知ろうとして。

 そして、そのおりには『つくられた桂離宮神話』を、事前に先方へおくりとどけていた。かしこ気なよそおいの著作で、知的な訪問者なのだと、オスカー側へ印象づけるために。美少女めあての不埒なおっさんだとは、想われたくなかったので。

 コンテストの歴史などを事務局の人々からうかがったあと、私は3人のモデル嬢を紹介してもらった。彼女らからも話を聞いたらどうかと、すすめられている。そして、たまさかその場にいた3人へ、くだんの事務局担当者は、私のことをこう知らせた。この人は桂離宮のことをしらべる研究者だ、と。

 だが、3人はいぶかし気に、私のことをながめている。言葉をかわしてわかったのだが、3人のうち2人は、桂離宮のことを知らなかった。

 桂という響きのせいだろう。それは大阪の落語家かと、私にたずねた少女もいる。どうやら、首都東京の若い女性には、桂離宮の名声もとどいていないらしい。神話化されすぎているといきまく私も、空回りをしていたということか。

 さすがに京都だと、桂離宮の名を知らない少女は少なかろう。高校生ぐらいになれば、たいていわきまえていると思う。だが、東京ではたらくモデル嬢は、あまりピンときていない。その現実から、私は桂離宮の声望も京都ローカルの枠をこえないことに、気づかされた。あるいは、首都の若い人が、東京以外のことに関心をいだきにくいことも。

 いずれにせよ、『つくられた桂離宮神話』には、詐術がある。少なくとも、オスカーの美少女たちにとっては、詐欺めいた著作としてしかうつりえない。桂離宮は、どうしてあれほど神格化されたのか。私が発したこの問いかけは、その名も知らぬという人々に、インチキとしてうけとめられるはずである。原理的には。

 幸か不幸か、3人のオスカー嬢は、私の著作をそんなのまやかしだと、とがめなかった。「あたしたちって、ものを知らないよねー」という陽気な反応だけを、ひきおこしている。あなたたちこそ、私の仕事を本質的に批判しているのだという私の想いも、彼女らにはつたえられなかった。

 研究者によっては、彼女らがしめした知識の欠落ぶりをなげくむきも、いると思う。だが、私はそう感じなかった。彼女らの反応を、当人たちの内心とはかかわりなく、自分への批判としてうけとめている。美少女たちから、自分のテーマが興味の埒外へおかれたことに、マゾっ気をかきたてられたせいか。

 それだけではない。やはり、京都の宝物が東京でないがしろにされたことを、私はよろこんだのだと思う。桂離宮なんて、京都でいばっているだけ。東京へくれば、落語家とかんちがいをされることもあると、知らされて。

 私が桂離宮をはじめて見たのは、1970年代の末ごろだった。建築学科の大学院へかよう学生の特権で、私は離宮の中、殿内の様子もつぶさにながめている。中書院や新御殿のみならず、便所まで。そして、新御殿や松琴亭のしつらいには、たまらなく京都的な美学を感じた。

 ――うわーっ、京都や、まるごと京都や、かなんなあ、いややなあ……。

 意匠のどこがどう京都的なのかを、ここで説明するゆとりはない。とにかく、私はそこに京都を感じ、うんざりしたのである。

 もっとも、『つくられた桂離宮神話』は、その京都という本丸にせめこんでいない。京都はいやだという自分の情感を脇へおき、知的に話をくみたてながら、一冊をまとめている。いずれ、その京都的な美学と正面からむきあい、打倒する著述に私はいどむべきなのだろうか。まあ、そこまでじっさいに自分がふみこむかどうかは、わからぬが。

 桂離宮など眼中にないオスカー嬢が、あの京都的にすぎないしつらえをないがしろにしてくれた。そう思えたこともまた、私をうれしがらせている。では、なぜ私はそこまで京都的な形を、いやがるのか。

 今回は、その因縁話を、『京都ぎらい』という本にした。御一読いただければ、ありがたい。