紫式部と彼女の時代の最も影響力のある男性、藤原道長との間に秘められた恋愛はあったのか。『紫式部日記』と彼女が晩年に編集した『紫式部集』の間で描かれる二人の関係性の違いを通じて、紫式部が道長に対して抱いていた感情の複雑さを垣間見ることができる。紫式部と道長、この二人の間には一体何があったのか、平安文学と紫式部に詳しい京都先端科学大学の山本淳子教授の新著『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか』(朝日新聞出版)から抜粋・再編集して解説する(「Aera dot.」2024年1月8日に公開された記事の再掲載です)。
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朝霧のなかの道長、ふたたび
ひとまず、深夜に紫式部の戸を叩いたのが道長だったとしよう。またそれが、梅の実を介したやりとりをきっかけにしたものだったとしよう。すると、紫式部が渡殿の局にいることから場所は道長の土御門殿、梅の実があることから季節は梅雨の頃。二つの情報を合わせ、彰子が陰暦五月頃に土御門殿に滞在した年を調べると、この事件の年次がわかるという見方がある。さらには、梅の実が彰子に供されていることから、時に彰子は懐妊中だったと推理できるともされる。その説によれば、これは寛弘五(一〇〇八)年のことである(萩谷朴『紫式部日記全注釈』)。