明治神宮の伝統を創り上げた先人たちの記憶を辿り、改めて2020年を捉えなおそう
今、新国立競技場建設計画問題で様々な議論が巻き起こっています。1964(昭和39)年の東京五輪の開・閉会式会場となり、そして来る2020年に再び、オリンピックのメインスタジアムとなる国立競技場。その前身は、「明治神宮外苑競技場」でした。
明治神宮は、鎮守の森と本殿による内苑、そして神宮球場など、数多くのスポーツ施設を擁する外苑で構成されています。その造営は、いわば壮大なる“まちづくり”でもありました。ちょうど2020年に鎮座百年を迎える明治神宮を、改めて捉えなおしてみませんか?
国立競技場の前身、明治神宮外苑競技場はどのように生まれたか
明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする神宮です。1912年の明治天皇の崩御後、渋沢栄一ら財界有志と当時の東京市長・阪谷芳郎は、天皇の霊を祀る神社の創建を請願しました。この計画は、提案の時点から内苑に加えて公園機能としての外苑が想定され、更には表参道、裏参道までが一体となった、一大まちづくりプロジェクトでした。外苑はその後各界からの要請で、多様なスポーツ施設が加わり整備されていきますが、そのひとつが明治神宮外苑競技場だったのです。
夏目漱石が大正三年に発表した小説『こゝろ』に、有名な一節があります。「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったやうな気がしました」。近代国家形成期の立憲君主であった明治天皇の崩御は、ひとびとにとって、大きな事件だったのです。
渋沢栄一をはじめ、明治神宮造営に関わった人物たちは、多くが欧州視察を経験しています。激動の時代に西洋技術と文化を吸収して帰国した彼らは、造営を通じて国の未来へ、どんな決意を込めたのでしょうか。
内苑と外苑の機能分担計画、そして「青年団」によるボランティア活動
外苑の用地となった千駄ヶ谷村付近は、江戸の頃は町のはずれ。弓や鉄砲を専門とする下級武士たちの屋敷や火薬庫・砲術調練場があり、維新後は、陸軍の演習用施設である青山練兵場となっていました。外苑に当初から競技場設置が盛り込まれた理由は、明治天皇の尚武剛健の気風や、日本に古来から続く、相撲や芸能を神社に奉納する伝統にあったようです。いわば、スポーツ奉納の場となる施設が求められたのでしょう。
計画では、内苑と外苑は空間・機能のみならず、開発資金も振り分けられていました。内苑は国費造営、外苑は寄付を集めた上での、民間造営。寄付はすぐに目標を達成したものの、競技場も含めた造営工事は、その後のインフレと社会不安で難航します。
そこに「勤労奉仕」として動員されたのが、全国の青年団組織でした。静岡県で青年団運動を指導してきた田澤義鋪が造営局長に提案し、内苑・外苑で述べ10万人超が、全国から造営のために集まりました。毛布や米を持参して仮設宿舎で共同生活をしながら、昼は労働に従事し、朝夕は講演や講習会などに参加したのです。
これらの青年団は、自主的な発生からやがて国家機構の中で再組織され、安価な労働力の確保や国民意識高揚の場へと、性格が変容していくことになります。しかし、鎌倉時代を起源とする、いわば“若者組”を原型とした田澤の青年団活動の目的は、リーダーシップや道徳を育んでいくことにありました。国立競技場横の日本青年館は、もとは彼らの修養道場として作られた施設だったのです。
100年後の大都会東京に現れた「永遠の森」
内苑の敷地となった代々木の御料地は、彦根藩主井伊家の下屋敷を宮内省が買い上げた土地でしたが、現在の御苑エリアを除き、一面の原っぱや荒地でした。その上大正時代にはすでに東京では公害が進み、都内の大木・老木が次々と枯れていたのです。
そこに樺太・台湾から満州・朝鮮も含め、当時の日本全国から届けられた10万本の献木が青年団の勤労奉仕により植林されて、代々木の杜が誕生しました。鎮座祭は、1920年(大正9年)11月1日。当時の新聞には、「明治神宮は、国民のための神社である。国民による国民のための神社は、大正デモクラシーにふさわしい。」と讃えられたそうです。
森づくりのリーダーとなった日本林学界の父・本多静六は留学を経て、「その土地の気候風土に、最も適した樹木を植栽する」理論を推進しました。荘厳なる明治神宮には、杉などの針葉樹が相応しいという大隈重信首相に対して、関東ローム層の代々木では、広葉樹の森でなくては育たないと反論・説得します。1921年(大正10年)に彼らが完成させた「明治神宮御境内 林苑計画」。このプロジェクトの到達地点は、彼ら研究者の没後を見据えていました。
最初は、やせた土地でも育つ針葉樹など、多様な樹種を多層に植栽する。その後は、手入れや施肥を全く加えず、落ち葉は一切捨てずに森へ返す。自然界で起こる樹木の競争と淘汰の年月を経ておよそ100年後には、広葉樹を中心とした、本来この土地に存在したような原生林となる。「100年後の、永遠の森をつくる」ことが、かれらの最終目的だったのです。
このほど、「明治神宮境内総合調査」によって、現在の森の全貌が明らかになりました。植林時に半分あった針葉樹は、一割以下に激減。樹の世代交代が進み、替りに常緑広葉樹が2/3を占める森となっていました。森林性の鳥が飛来するようになり、森の王者と呼ばれるオオタカが巣をつくり繁殖しています。永遠の森を人の手で形成できることが、科学的に予測・実行・証明されたのです。
国立競技場と明治神宮、そして東京の未来のために私たちができること
外苑および参道計画も、関東大震災後の復興事業とも軌を一にして、最新の設計思想に基づいた建設が進みました。明治神宮外苑競技場は1924年の完成後現在まで、日本を代表するスポーツの聖地でした。戦時中には出陣学徒壮行会も行われましたが、敗戦後に連合軍に接収されたのち取り壊され、1958年に国立競技場として生まれ変わったのです。
新しい国立競技場に対して、人口減少時代を迎える日本にふさわしい姿が、今しきりに議論されています。そして五輪後に始まる明治神宮外苑再開発でも、東京都は外苑一帯を「スポーツクラスター」と位置付け、施設の更新を機に、にぎわいづくりを目指すとしています。景観や緑地の保護は特に重要とされ、イチョウ並木は現状のまま保全されます。
初詣に例年日本一の数の参拝者が訪れ、一年を通じて、外国人観光客の姿も絶えない明治神宮。その姿は創られた伝統であるともいえますが、明治神宮のウエブサイトには、こう記されています。「現在、森厳な杜で参拝できるのも、先人たちのおかげといえます。平成32年は明治神宮鎮座百年を迎えます。現代に生きる私たちも、100年後、さらにはその先のために今、何ができるか考えたいものです。」
平成32年は、奇しくも2020年。この符合を戦後70年の意味とともに、改めて考え直したいと思います。
参考文献:
『明治神宮―「伝統」を創った大プロジェクト』今泉 宜子 (著) 新潮社 (2013/02)
『国立競技場の100年: 明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』後藤 健生 (著) ミネルヴァ書房 (2013/12)
『新国立競技場、何が問題か: オリンピックの17日間と神宮の杜の100年』槇 文彦・大野秀敏 (著, 編集) 平凡社 (2014/3)
『東京人/特集 明治神宮の杜』都市出版(2010年 12月号)
参考メディア:
『NHKスペシャル/明治神宮 不思議の森 ~100年の大実験~』(2015年5月2日放映)