もう一つは、元恋人が亡くなったところから物語が始まるので日常が見せられません。ある種ちょっとトーンダウンした状態から始まるわけです。そうなると被害者意識が強いキャラクターに見えかねないので、そうならないためにも生命存在としてたくましい、なおかつ生命存在としての美しさの映る人にやってもらいたかった。前田さんは、本当にたくましい人だって思っていましたから。
前田:その時その時の自分が、ちゃんとやって作品のためになる存在になれるかどうかっていうのは、いつもすごく気にすることです。ですから、れいこという役柄もタイミング次第ではもしかするとできなかったかもしれない。でもあの時の私は、三島監督とだったらできると思ったんです。
―物語の根底に流れるのは「罪の意識」だ。
三島:罪や法律を犯したとかだけでなく、自分の中の規範だったり、社会のルールだったり、道徳だったり、宗教だったりっていう中で「罪の意識」を感じることっていっぱいあると思うんです。じゃあいったい「罪の意識」ってなんなんだろうって脚本を書いている間に思いました。洞爺湖編では「こうしてあげればよかった」という後悔の「罪の意識」です。八丈島編で描いたのは、罪を犯す側です。妻の延命治療をやめることは第三者から見れば罪ではありませんが、あそこで外さなければという「罪の意識」がありますし、娘のおなかの子の父親は罪を犯した経験があります。大阪・堂島編は、被害者が背負う「罪の意識」です。傷つけられたのに罪の意識を感じるのはどういうことなんだろうと思っていました。不思議なことに、心の傷や性的な傷というのは、その受けた側が「私が悪かったのではないか」という罪の意識を持ってしまうことがあります。これって一体なんなんだろうっていうこと、性をきちんと語ってこなかった日本で、一人の作家として性の本質を見つめたいと思いました。同じような釈然としない心持ちで生きている人たちに対して、何を届けられるかをひたすら考えていました。
いつも脚本を書く時に感情移入して、撮影現場の時は客観的なんです。今回は脚本を書いている時はこういう経験をした人はどういうふうに生きているんだろうと他人事のように客観的に見つめながら書いて、むしろ(被害にあった実際の現場である)大阪で撮影したものですから、撮影現場の方が若干自分自身で引っ張られるっていうことがあって、今までとは違ったなっていうのはあります。